いびつな歯車
「わが尖りたる矢よ
速やかに翼を縫ふて
地の上に落とせ。
恋の畑の 畝をひろげむ。
わが放ちたる 音なき矢に
翼 縫はれて地に落ちたる
恋の使いは鵲なり。
天の河原に星を渡す
橋をつくりては何処に行く
御階の下か 筑の山か。
わが矢は折らむ。
飛び去るなかれ 鵲よ」
河井酔茗 万葉集その二百九十七『鵲(カササギ)の渡せる橋』より
どんよりとした曇り空が広がる早朝。一匹のふくろうが、ロンドン郊外の住宅街の上を飛んでいた。
ふくろうは一般的に、コノハズクと称される見た目をしていた。落ち葉色の柔らかな羽。山吹色の丸い目。どこにでもいる、ありふれたコノハズクだ。しかし、このふくろうを見た人がいたならば、すぐさま顔を曇らせることになるだろう。
――なぜならば、このふくろうの小さな嘴は一部の新聞をくわえていたからである。さらに、脚には革の袋が括りつけられていた。たとえ伝書鳩ならぬ伝書ふくろうであったとしても、それはやけにおかしな組み合わせだった。
ふくろうはとある家の上に辿りつくと、ひと回り、なめらかに旋回した。紺の屋根に、ミルクティー色の壁。家はこの住宅街のなかでもありふれたデザインをしており、平屋だったが、他の家とも目立つことなくちんまりと佇んでいた。
その家のなかで、ひとつだけ、開け放たれた窓を見つけたらしいふくろうは、すーっと滑るようにそこから侵入した。
ふくろうが入った先はリビングだった。カントリー調にまとめられているそこは、家主の丁寧な性格を伺わせる。おそらく家主は女性なのだろう。
ふくろうは新聞をテーブルの上に落とし、暖炉の側にある止まり木の上に、羽根をバサバサと鳴らしながら足を置いた。そうして最後のひと仕事だと言わんばかりに、袋の括りつけられている脚をぞんざいに差しだした。
「お仕事、お疲れさま」
女性――と言うにはいささか以上に幼い少女が、ふくろうに近寄った。見た目から判断するに、まだ中学校にも上がっていない年齢だろう。黒い髪は肩口で揺れており、無造作に切られているのだとわかる。体形はやや痩せぎみで、西洋風の家にも関わらず、スカートから覗く足は裸足だった。
少女は身長が足りないのか、背伸びをしてふくろうと向かいあっていた。少女が革の袋に五枚の銅貨を入れると、他のお金も詰まっているらしいそこから金属の触れあう音が響いた。ふくろうはそれを聞いて満足げに鳴き、またバサバサと羽根を動かして窓から出ると、曇り空のなかへと消えていった。
少女はそれを確認すると、テーブルの上に新聞を置きつつ、窓を閉めた。夏の早朝の空気が追いだされる。かわりに扇風機すらない室内が、涼やかな空気で満たされた。魔法かなにかでも行使したらしい。少女は手に持つ木の棒をいそいそとポケットのなかにしまっていた。
この不思議な少女は、ここの家主だった。名前はミユキ・サトリ。ホグワーツに通う学生だ。
ミユキはダイニングテーブルに戻り、生暖かい紅茶を片手に新聞を手に取った。
「……シリウス・ブラックが、脱獄」
一面記事にモノクロで、大きく男の写真が張り出されていた。男は乱れきった髪を振り、あちらこちらに向かって叫んでいる。声は聞こえないが、おそらくは意味もない言葉を吐き出しているに違いない。
ミユキは写真の側の見出しから、記事へと視線を移す。そこにはシリウス・ブラックという名の男性の経歴と、投獄に至った経緯が書かれていた。
ホグワーツ魔法魔術学校出身。ブラック家の長子。十二年前の一九八一年十一月一日、ロンドンの街でマグルを十三人殺害。ブラックはアズカバンでの終身刑を宣告された。
ブラックは本日未明、アズカバンから脱獄。脱獄をした方法はまだ明らかにされておらず、現在調査中とのこと。魔法省はブラックの目撃情報を求めており――。
ここまで読んで、ミユキは新聞をテーブルの上に置いた。
「そんな……シリウスの脱獄が早すぎる……」
呟かれた言葉には、凶悪だと形容される脱獄犯に対しての恐怖はまるで感じられなかった。むしろ、ファーストネームで呼び、顔を曇らせるさまは、友人を相手にしているようなおもむきを感じさせられる。
「…………」
ミユキは冷たくなりつつある紅茶をそのままに、目を閉じる。
幼い見た目の彼女がはたしてなにを思案しているのか。それを推し量ることはできなかった。