忘れられない家
学期末が迫った頃、ホグワーツの生徒の間ではあるひとつの噂でもちきりだった。
なんでもあのどもりのクィレル教授がヴォルデモートの手先であり、ハリー・ポッターがそれと戦って倒したという内容だ。話の尾びれがついて、ハリーは重症だの、はたまた死んだだのと噂されているのは、彼がいま、人目につかない保健室で眠っているからだろう。
けっしてハリーは大きな怪我を負っているわけでもなければ、死んでもいない。ただ精神的に疲労して、寝こんでいるだけなのだ。
「ここにいたのかね」
淡い夕日が射す保健室の片隅。ミユキはハリーが眠るベッドの傍にある、小さな木製の椅子に腰かけていた。
ダンブルドアが声をかけても顔を上げず、彼女の視線は一心にハリーのほうへと向けられていた。
ダンブルドアはミユキからの反応がないことを気にすることなく、ゆったりとした足取りでベッドに近寄った。
「君が気に病むことはない」
ダンブルドアは唄うように言う。
ミユキの横にたどり着いたところで、ようやく、ぽつりと小さな声が返ってきた。
「……ええ」
それは無機質な響きをしていた。同時に、あらゆる感情をないまぜにして発せられたような一言だった。
ダンブルドアに同意の言葉を返したものの、彼女の表情は硬かった。だが身体には力が入っておらず、人形がだらりと椅子の上に置かれているようだった。背中は覇気なく曲がっており、手は添え物のように膝の上に置かれている。ただ、彼女の瞳だけがじっと息をして、目前の少年を見つめていた。
それが、はたしてどのような理由から来ているものなのか分からぬダンブルドアは、何も言わずに、彼女の傍でじっと立ちつづけた。
そして、ハリーが十回ほど呼吸をしてから、ようやくミユキはぽつり、ぽつりと途切れがちに言葉を漏らしはじめた。
「ときどき……とてもやるせなくなるんです。見守ることしかできない自分を、どうしようもなく情けなく思って……。でも、そうすることでしか、私は大切な人を守れないんです」
それは自らに向けて話しかけているような響きがあった。あるいはダンブルドアの意見など、初めから必要としていないのかもしれない。
幼い子供の身体となったミユキは、かすかな声で囁く。
「なにもしないのが最善ならば……なぜ私は生きているんでしょうね」
ダンブルドアは彼女の問いかけに対し、どう答えるべきなのか悩んだ。
学年末試験の結果が発表され(ミユキはそこそこの成績を修めた)、ハリーは無事に回復してパーティーに現れた。ロンたちと共に笑い合うハリーの姿を目にして、ミユキはようやくほっと顔を緩ませた。
時間が矢のように過ぎ去ったと感じるのはハリーだけではない。ミユキもハリーの無事を確認してからは、あれよあれよという間に時が過ぎ、気がつけばロンドンのど真ん中でトランク片手に立っていた。
「……ふぅ」
マグルに中身を見られたら、確実に変人扱いされてしまいそうな物たちが大量に詰まっている重たいトランクを、よっこらしょ、と勢いをつけて持ち上げ、段差を飛び越えて引きずる。目的地までは長い旅となりそうだったが、いまさら魔法を使って荷物を軽くできるわけがないので、このまま黙って運ぶしかなかった。
ミユキはこの夏、田舎の教会に戻るつもりはなかった。なにしろ、あそこは魔法界と完全に断絶しており、また現代社会からも切り離された時間が流れているからだ。これから魔法界の動向を逐一見守らなくてはならないミユキにとって、あの田舎は不便窮まりなかった。
せめて、デイリープロフェットが運ばれてきて、煙突飛行が可能であればよかったのだ。しかし、残念ながらミユキは教会の人々に魔法界の存在を明かしていなかった。
この一年間はすべて全寮制の公立校に通っており、心優しい慈善家(ダンブルドア)が援助してくれたのだと思わせていたのだから、いまさらふくろうがバサバサと教会を飛び交い、暖炉からエメラルドグリーンの炎が燃え上がるのは大変よろしくない。
ではなぜ、そのような嘘をつかなければならないのかといえば、それはあの教会が魔法というものを知ったら、十八世紀の魔女狩りよろしく、確実にミユキを排斥しようとするに違いないからだ。いくら今まで親切にしてくれたからとはいえ、イエス・キリストを奉ずるあの教会が、魔法に対して寛容になれるわけがない。ミユキは魔法史からの知識で、それをひしひしと感じていた。
そんなわけで、ミユキはポンドやペニーが詰まった財布を片手に、ロンドン郊外までトランクを引きずって移動していた。
蜘蛛の巣のように張られたいくらかの地下鉄を乗り継ぎ、バスに乗ってしばらく揺られたところで、ようやくミユキはとある一軒家の前にたどり着いた。
一軒家とは言っても平屋でこぢんまりとしており、辺りにそれなりの家が建ち並ぶだけに、かなり違和感がある。幸いにも外装は西洋風で、それほど荒れ果てているわけではないのが救いだった。
ミユキはポケットから銀色の鍵を取り出し、その家のドアに差し込んだ。
カチリ、と軽快な音が響く。ノブを捻ってドアを開けると、もう何年も閉じこめられていたような空気がむわっとミユキの顔に吹きかかってきた。
「うわっ、埃っぽい」
ミユキは手を左右に払い、けほけほと軽く咳込んだ。やや湿気った木の匂いが生温い空気と共に鼻腔を刺激する。ミユキはこれとよく似た匂いを、図書室で嗅いだような気がした。
なんとかトランクを室内に入れ、小走りで窓を全て開放しにかかる。ようやく七月の夕方の涼やかな風が辺りを吹き抜けるようになってから、ミユキは改めて家内を見回した。
「…………」
灰色の埃のかぶったキッチン、怪しげな題名の書籍が並ぶ本棚、ソファーの上には作りかけのマフラーがそのまま放置されていた。
まるで、慌ててここから出た家主が帰ることなく、そのまま時が経過してしまったかのようだった。はたまた、家主はすぐに戻れる所用だと思って気軽にふらりと外出し、しかし再び帰ることがなかったかのようだった。
ミユキはそれらを懐かしい心持ちで見つめていた。
この家の存在を知ったのはつい最近、学年末パーティーが終わったときだった。ミユキが教会に戻るべきか、はたまたロンドンのアパートでも借りるべきかと悩んでいたときに、ダンブルドアがひとつの鍵と共に声を掛けてくれたのだ。
なんでも、「君にサプライズプレゼントがある」とのことで、鍵を受け取った瞬間に、ミユキは驚きと喜びで目を輝かせた。
――実を言うと、この家はミユキのものだった。十数年前、ホグワーツを卒業したミユキは当然のごとく魔法界で就職し、騎士団の仕事の傍らで、ちょっとした反則技を使ってひとつの家を手に入れた。
あの時、トリップして幼くなったために精神的成長がほとんどできなかったミユキは、初めて手に入れた自分の一軒家を前にして、充足感に満たされていた。
本人は純粋に十七歳足す十一年で二十八歳になっていたつもりだったが、実際の精神は見ため通り、十八歳の少女でしかなかった。そんな少女が、まがりなりにもひとつの家を手に入れることは、ただの社会人が行う以上に感慨深いものであった。
家主が死んでから何年も経過していたために、とうの昔に取り壊されているものだとばかりミユキは思っていた。
しかし、好意的な誰かのおかげで(おそらくダンブルドアだろう)マグル避けの呪文を掛けられ、さらには外装の清掃をされて、奇跡的にそのままの状態で保たれていた。
一応、家の名義はダンブルドアに移行したらしく、ミユキが室内で魔法を行使する分には特に問題はないらしい。ただの一魔女にここまで気にかけてくれるダンブルドアには、つくづく頭が上がらない。
“匂い”がついた未成年の特定は意外とずさんなのがこの英国の魔法界のシステムで、日本の魔法界はともかく、成人した魔法使いがいることが前提の場ならば、魔法を使ってもバレなかったりしてしまうのである。
おそらくは“匂い”をつけることで、未成年の魔法使いの一定範囲内で行使された魔法の感知をしているのだろうが、それがたまたま近くにいた成人の魔法使いによるものか、未成年の魔法使いによるものかは判別できないのだろう。詳しくは分からないが、ミユキはそう仮定していた。
逆に言えば、ハリーのケーキ浮遊事件のように、ハリーの身近でたまたま魔法が行使されただけなのに、その地域に魔法使いがハリーしかいないため、冤罪を被ってしまうケースもある。
それを踏まえると、五巻でのグリモードプレイスまでの飛行は、きっと魔法省のなかに騎士団員が潜り込んでいたに違いない。あんなに魔法をハリーの周りで使用していながら通知のひとつもこないのは、どう考えても異常だった。
とにもかくにも、魔法が使えるならばこれ幸いだと、ミユキは杖をポケットから取り出して無言で振る。
しかしなにも起こらなかったことで、ようやく自分の技術が初期値に戻っていることを思い出した。
「Scourgify(清めよ)……」
今度は口に出しながら杖を振るが、積もり積もった埃が直径五センチ程度、ふわりと消えただけだった。しかも、埃の下から覗いたテーブルは、お世辞にも完全に清められているとは言いがたい。
得意だった妖精の呪文ですらこれなのだから、DADAの技能などは見る影もないのが当然だろう。
ミユキは溜め息をつきながら、大量に蔓延る埃や蜘蛛の巣との格闘を始めた。
掃除をしている途中で、ミユキは自分のグリンゴッツの鍵を発見した。埃はやや被っていたが、まったく錆びていないあたりは、さすがはゴブリン製の鍵といったところか。
はたして死後何年も使用されていない口座がまだ開いているかどうかはわからないが、試してみないことは分からないだろう。そうひとりごちながら鍵をポケットにしまいこんだ。
ミユキが働き出して何年もたたないうちに殺されてしまったので預金額はそれほどないだろうが、お金というものはいくらあっても困るものではない。特に、親もいないミユキにとっては、たとえ一ガリンであっても無視はできなかった。
この一年は孤児に対する特別手当でなんとかしのいできたが、仮に口座がまだあったとすれば、来年からはそれほどお金を心配する必要性がないかもしれない。ミユキは口元をなかば無自覚のうちに緩めた。魔法薬学で使用する材料やインクなどの消耗品は値引きをすることが困難なため、いつもひやひやしながら生活してきたのだ。
よくよく考えれば、ミユキはここにトリップしてきたときから特別手当を受けて学校に通っていたため、自由に自分のものを購入した記憶がなかった。しかし、金庫が残っていれば、これからは気がねなくインクを消費できるだけではなく、もうすこしお洒落な羽ペンを買うことだってできるようになるかもしれない。はたまた、ハニーデュークスで舌のとろけるようなお菓子をたんまりと買うことも、書店で好きなシリーズ小説の新作の購入だって――。
そこまで考えて、自分が幸せな妄想の世界に浸っていたことに気付いたミユキは軽く頭を振った。
まだお金があるかどうかもわからないのに、ここまで妄想を膨らませてしまうとは。よほど自分は自由な学生生活に憧れを抱いていたらしい。
ミユキもこちらにトリップする以前は、普通の女子高生として人生を謳歌していたはずなのだが、いかんせんこちらでの生活が長いために昔の自由を忘れかけていた。
昔はそこそこにお金の詰まった財布を片手に、学校帰りにコンビニに寄ったり、休日に好きな小物を集めていたものだ。親から与えられたお小遣いを、やれ少ないだのなんだのと文句を言い、あたかも自分が稼いで手に入れたもののように消費していた。
いま思えば、あの頃のミユキはつくづく子供であった。
「(働くようになって……お金の大切さがわかるとはよく言ったものだね)」
もうほとんど思いだせなくなったかつての日々を回顧し、ミユキは呆れの言葉を呟いた。
家と親があるのが当然で、学校に通えることも普通のことだと考えていた。ただなんとなく惰性の日々を送り、将来のことですら漠然としか考えていなかった子供が、よもや世界を飛び越えてしまうだとは、いったい誰が予想できただろうか。
ミユキは鍵の入れてあるポケットに手を入れ、それを軽く握りしめた。金属特有の、冷たい感触が皮膚を刺激する。
それがミユキに対して、ここは現実だと知らしめているようであった。
――しかし、自分はもう大人なのだ。決して守られるべき存在ではなく、守るべき立場にあるのだから。
彼女の頭に浮かぶのは、もちろん、あのくしゃくしゃの黒髪をした男の子の顔だった。