ほのかな影


ミユキの気持ちの具合に関係なく、時は進行するものだ。時は誰にとっても平等なのである。もちろんタイム・ターナーを使用しなければ、の話だが。

ハロウィンから一夜明けた翌朝、ミユキはのろのろと着替え、寮から出ていった。太った婦人がなにかを言っていたが、それを気にする様子はない。ただ慣れた足取りで、幾多の階段と廊下を通りすぎていた。
早朝のホグワーツは静けさに包まれている。そこに漂う空気は厳粛で、かつ緩やかだ。
まだ朝食も用意されておらず、それゆえに出歩く生徒は少ない。教師も各々の研究室に篭っているし、ゴーストは物音を立てることをしない。ときおり、散歩に興じる生徒たちとすれ違うものの、彼らはたいがいが個人的な行為に没頭しているために比較的おとなしい。つい先ほどもハッフルパフのネクタイを付けた生徒を見かけたが、生徒は箒を手に、早足でミユキの横を通りすぎていた。

窓から淡い光が射し、ホグワーツの廊下を暖かく照らす。埃が反射してきらめく様は雪のように穏やかであり、電灯などという類がなく、早朝ゆえに松明すら燃えていないこの建物内においては貴重な光源となっていた。
教会のように荘厳な空気を醸し出すここは、教育施設というよりかは何らかの観光地だと言っても差し障りがないほど美しい。生徒たちは古いだのなんだのと文句を言うときがあるが、これほど歴史があり、魅力的な城もなかなかないとミユキは考えていた。
少なくとも、ミユキはこのホグワーツ城を気に入っていたし、不可思議な扉や面倒な階段の存在を差し引いても、第二の家としてたしかに認めていた。

ミユキの足取りは一定の速度を保ち、大広間の前を通り、正面玄関を抜けた。
重い木の扉を開けると、まだ淡い陽光がミユキの顔を照らした。清々しい朝だと表現してもいい天気だろう。葉に付く朝露がきらりと輝き、吹く風の強さも、肌に感じる気温も申し分ない。夜明けを感じさせるこの雰囲気には、老若問わず何かの期待を抱かせたくなる。
しかしミユキはなんらかの前向きな様子を見せることなく、さくさくと単調に芝を踏んで湖へと向かった。
小鳥のひそやかな会話が木々の間から聴こえる。湖の上には風の力でさざ波が時に起こる。ミユキは湖際に到着すると、制服に水滴が付くことをいとわず、木の側に腰をおろした。

湖は静かだ。
ミユキの足元で、名もなき白い花が揺れている。
この空間は昔となんら変わらない。おそらくは、これから先も同じような風景を皆に見せるのだろう。花は枯れるかもしれないが、大意は不変だ。空と、湖と、山と、芝。そして、いくらかの影を提供する木。それだけは変わらないと言い切れる。

時の流れを停止させている景色は、ミユキに昔の学生時代の頃を想わせた。
精神すらまだ成人にも達していなかったミユキは、よくここで友人と共にたわいもない言葉を交わしたものだ。本を片手にしているときもあるし、まるっきり手ぶらだったときもある。だが、所持品の内容に関わらず、交える言葉はいつも穏やかで、ささやかな幸せに満ちていた。

『ふふっ。ミユキってば本当に変わってるわね』
『リリーに言われると冗談に聞こえないよ』
『あら、冗談じゃないもの』
『えっ!? ……セブルス、まさかあなたもそう思ってるの?』
『……フン』
『無言よりひどい!』

かつての笑い声がミユキの耳元で弾けた。まるで真横を向けば、かつての自分たちがすぐそこに座って、笑い合っているかような錯覚に陥る。あるいはそれは、ホグワーツという魔法が見せる蜃気楼なのかもしれない。
ミユキとリリーとセブルス。寮も立場も違うちぐはぐな三人は、時折こうしてたわいもない会話に興じていた。ミユキは口に出して言うことはなかったが、あの親世代の彼らと友人関係になれたことを喜ばしく思っていた。もっと言えば、有頂天になっていたのかもしれない。

ミユキは頭を振って、過去の幻想という麻薬を掃った。過去はいつだって甘美で柔らかい。絹のような手触りで、しかし完全には掴み取れない霧だ。見ることも浸ることもできるが、決して固形物のようには味わえない。そこにあるのはただ浮遊する、儚くとも美しい不確定な形だけだ。
過去は麻薬のように人を惑わせる。ときにそれは人を停滞させ、現在という現実から目を背けさせる。酒のように少量なら良いが、摂りすぎは毒となる。幸せな思い出といえども――それがパトローナムの力になるとしてもだ――必ずしも、未来を幸福にさせるとはかぎらないのだから。

しばらくの間、ミユキはじっと座り込んでいた。しかし、じきに校舎から生徒たちの活動する音が増えてきたために立ち上がり、暖かい寮へとおとなしく戻っていった。



「ねぇ、落としたよ」
「えっ?」

ハロウィンから一週間ほど過ぎた頃だろうか。
いつものように昼休みを迎え、大広間へと向かって廊下を歩いていたハリーは、背後から肩を叩かれて振り返った。
そこには見慣れない少女が立っていた。黒い髪に黒い瞳。ハリーと同じ色のネクタイから察するに、グリフィンドール寮の生徒なのだろう。

「このノート、ハリーのでしょ?」
「あっ……わざわざありがとう」
「どういたしまして」

小柄な少女はにこりと微笑んで、さしたる会話もせずに、ハリーを背に歩き出した。
ハリーはその後ろ姿を見ながら、隣にいたハーマイオニーとロンにこっそり尋ねる。

「ねぇ、あの子の名前ってなんだったっけ?」
「……たしかミユキ・サトリだわ。同じ寮の同級生よ」
「えっ、あんな子、僕らの寮にいたっけ?」
「ロン、それは失礼じゃない。ちゃーんと彼女はいつもいます」
「でも影は薄いよね」
「まったく。いつかゴーストになりかねないよな」

いくら失礼な話をしようとも、遠ざかってゆくミユキにはその声は届かない。会話をしていくうちに、そういえば最初の魔法薬学の授業で声を聞いたことをハリーは思いだした。
彼女の歩く姿と共に、後ろの黒髪も流れるように揺れていた。癖っ毛のハリーからすれば、彼女の髪質は羨ましいものだった。

「アジアンだよね?」
「ジャパニーズよ。彼女がそう言ってたわけじゃないけど、私、よく似た名字を見たことがあるもの」
「おっどろきー。君、海外の本まで読んでるのかい?」
「違うわ。ホグワーツにあったお墓に書かれていたの」
「えっ? ホグワーツに……お墓?」
「そうよ。知らないの?」
「知るわけないじゃないか! 僕らまだ入学して二ヶ月しか経ってないんだぜ?」
「二ヶ月も、よ。どこかの誰かさんとは違って、私は校内を散策できる余裕があったんです」
「なんだよそれ」
「で、それはどこにあるの?」
「たしか、あっちにあったわ」

ハーマイオニーの案内に連れられて、まさにハリーたちが踏み出そうとした途端、呟くような、冷ややかな声が背後から掛けられた。
デジャヴュのようだが、ミユキでないことだけは明らかだ。

「興味本位で墓参りをするとはな。さすがはグリフィンドール生だ」

スネイプだった。

「お墓を見ることに、なにか問題でもあるんですか?」
「問題かどうかは問題ではない」

勇敢にもハリーは食いかかったが、スネイプはするりと蛇のようにそれを交わす。さらにはハリーの首元にある、曲がったネクタイに目をやり、口元をゆがめた。

「グリフィンドールから一点減点。身嗜み程度は整えたまえ」
「……、はい」

さらに言い返そうとしたハリーだったが、隣のハーマイオニーがローブを引っ張ったために、大人しく睨むだけに留めた。
スネイプはまだ何かを言うかと思いきや、意外にもハリーの睨みにすら相手にせず、ミユキが去っていったほうと同じ方向へ踵を返し、そのままやや早足で歩いていった。
ハリーはその後ろ姿を睨みながら、心底憎々しげに呟いた。

「やっぱりスネイプって嫌な奴だ」

スネイプの介入のせいで、墓を見に行くことは次の機会になってしまった。

「それは……そうね。否定はできないわ」

普段はすべからく教師を擁護するハーマイオニーだったが、このときばかりはハリーの言葉に同意した。
セブルス・スネイプが気分だけで減点をしたことは、優等生の目から見ても明白だったのだ。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -