仮定の覚悟


ハロウィンの夜。スネイプは三頭犬に脚を噛まれた。まったくもって原作通りの流れに、ミユキは呆れるというよりかは感心してしまった。

「なんとまぁ……お気の毒さま」
「憐れむためにわざわざ来たのか」
「いや、そんなことはないよ」

スネイプの厳しい視線をなんなく流し、ミユキは脚にある傷痕へと近づいた。蝋燭に照らされた血はてらてらと艶やかに光り、見るからに痛そうだ。
音楽を鳴らせばよかったのに。ミユキは彼の痛々しい傷口を見ながらそう思った。しかし、スネイプがこの怪我を負わなくては物語は進まない。余計な助言をしてしまえば、未来が狂ってしまう可能性がある。
ハリーの命を確実に守りたいミユキにとって、それは避けたい事態だった。
かつての同期生の負傷を申し訳なく感じつつ、それでも彼女は未来を優先させる。

「……あまり怪我はしないでね」

その代わりとして出した言葉は、ひどく空虚で曖昧な響きがした。

「むろん、そのつもりだ」

傲慢そうに言うスネイプの態度は、ミユキにとってはありがたいものだった。もちろん、彼女はそれを言うこともなかった。

スネイプの研究室は一見すると薄暗い場所のように思われるが、実はそこまで闇に包まれているわけではない。魔法薬の調合というものは繊細な立ち回りを必要とされる作業であり、手元や鍋の中身が不鮮明であってはいけないのである。しかし、スネイプは明るい光を好まないため――こう述べると彼がまるで夜行性動物のように思われるが――薬瓶の乱反射を利用して、最小限の明るさを室内の中心に集めることで室内の明度を押さえていた。
ミユキの横にある暖炉の火は、パチパチと揺れては燃えている。これが、スネイプの部屋の明源となっているのだ。
薪が火に呑まれ、柔らかな速度で灰に移りゆく様を眺めながら、ミユキはこれからの未来をぼんやりと想った。

スネイプの大きな負傷は、これと、六年後のナギニに噛まれるときしかない。今回のことは伏線のために、なかば見捨てるように許したが、六年後の負傷はどうするのか。
答えは言うまでもない。もちろん、今日のように見逃すのだろう。

だって、それが物語なのだから。そうなる“運命”なのだから。どうすることもできない、仕方のないことじゃないか。
ミユキは諦観するように心中で言いわけじみた呟きをする。
彼女の目の前で、暖炉の炎がチロチロと蛇の舌のように動いた。それはあたかもスネイプの命を狙う蛇のようで、ふいに映画で観た映像を彼女に思い出させた。

血を流して、リリーの目を見ながら息絶えるスネイプ。彼から記憶を受け取ることで、ハリーは死に逝く運命をついに受け入れる。そうして彼は闇を払った英雄となり、世界に平和をもたらすのである。
鮮やかに流れ出る血を想像していると、彼女の中で疑問がふくりと鎌首をもたげた。

――ハリー・ポッターの英雄物語のために、スネイプの死は本当に必要なのか?

……いや、必要だ。
必要でなくてはいけないのだ。
ミユキはじわりと湧く疑惑を押さえつけるために、強く自分に言い聞かせた。

「……ミユキ、どうした?」
「ううん、なんでもない。セブルスは怪我してるんだから安静にしてよね」

ミユキは頭を振って、スネイプの研究室を後にした。寒く薄暗い廊下を歩きながら、思考はぐるぐると深く落ちてゆく。

セブルスは同級生だった。七年間もホグワーツで共に生活していた。だから迷ってしまうんだ。友人だったから、それなりに親しい間柄だったから、わたしはこうして悩んでしまうんだ。
再来年にホグワーツへとやってくるであろう、二人の友人の顔をミユキは思い出す。
シリウスやリーマスが亡くなるとき、自分はどうしてしまうのだろうか。
スネイプについてこうして悩むように、深く悩んでしまうのだろうか。
決まりきった未来を変えたいと、浅ましくも強く願ってしまうのだろうか。
そして、ジェームズとリリーが亡くなったことを知ったときのように、茫然自失とした生活を送ってしまうのだろうか。

――ハリーを守るということは、昔の友人すべてを切り捨てるということなのだ。

ミユキは自身の息を吸う音が、やけに間近に感じられた。
それは今さらながらに突きつけられた、残酷な現実だった。

覚悟なんてしていなかった。
まったく理解していなかった。

ミユキはただ、ジェームズの愛した息子を守りたいという気持ちだけで行動していた。それによって発生する運命の結末など、想像だにしていなかった。

それはスネイプのものにまったく及ばない、まるで幼稚な決意だ。

ミユキは痺れた脳で思考する。
スネイプは愛する人の息子のために、全てを差し出して、命を掛けてまで守ると誓ったというのに。
同じ考えをしているというのに、己と彼は、ここまで違ってしまっているのか。

「……ジェームズ。あなただったら、」

きっとあの明るく勇敢な彼ならば、「そんなの、みんな救ってやるに決まってるじゃないか!」と朗らかに言うに違いない。そしてその宣言通りに、未来をいとも簡単に変えて、平和な世界を築いてしまうに違いない。
友人を見捨てることなく、周りを悲しませることもなく、守りたい人をみんな守って、ジェームズは楽しげにその中心で笑うのだ。

『ほら、ミユキ。できないことじゃなかっただろ?』

手を伸ばしてこちらを見るジェームズの顔を、なぜかミユキは鮮明に思い浮かべることができなかった。
その資格すら、ないような気がした。

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