Angsthase | ナノ
雪解けの体温


話をしようとは言ったものの、さすがに陰陽師の総本山のど真ん中でのうのうと突っ立ったままというのはよろしくない。いくら奴良組の妖怪がいるとはいえ、陰陽師に鯉伴のことを京妖怪と間違われては面倒である。
ということで、ナツメと鯉伴は場所を移すこととなった。ナツメからしてみれば、奴良組の者たちにも鯉伴と一緒にいる姿を見られたくはなかったので、鯉伴が移動してくれたことはありがたかった。

「…………」

奴良組の妖怪や陰陽師たちの間をのらりくらりと通り過ぎる。こんなに堂々としているのに、誰もこちらを見やることすらしないのは、おそらく明鏡止水を使っているからだろう。鯉伴の腕の中で抱かれながら、ナツメはぼんやりとそう考えた。仮にも総大将であった人が私を一緒に姿を消していて、はたして大丈夫なのだろうか。
……いや、問題しかない。きっと、お目付役は必死になって鯉伴のことを探しているに違いない。彼らの苦労をよく知っている身からすると、同情することこの上ない。奔放な上司に振り回されて、さぞ苦労していることだろう。
昔の奴良組での生活を思い出し、目が遠くなる。移動中のさなかにのんびりしたことをしている自覚はあるが、こうして現実逃避でもしないと緊張と不安でどうにかなってしまいそうであったのだ。


「よし、ここらでいいか」

上の空でとりとめもないことを考えているうちに、花開院家から無事に出られたらしい。
そっとナツメが下ろされたのは、どこかの公園のベンチの上だった。
体調の優れないナツメのことを慮ってのことだろう。その公園は木々がほどよく生い茂りっており、早朝なのもあって人気がない。隠れて話しあうにはちょうど良い場所だろう。

ナツメの横に、鯉伴が座る。向かいあわずに話しあう姿勢となり、ナツメはわずかに安堵した。
お互いの顔を見て話しあうなど、今の精神状態では厳しすぎる。

しかしナツメの気を知ってか知らずか、鯉伴はじっとそんなナツメの顔を見つめていた。
その真っ直ぐな視線は、まだ覚悟のついてないナツメにとっては居心地が悪い。緊張をすこしでも和らげようと、眼鏡を掛けるようになってからついた癖でフレームの位置を直そうとて空を切り――そこではじめて、自分が眼鏡を掛けていないことに気づいた。
ハッと焦るナツメを前に、鯉伴はいままでの堅い表情を崩し、ニヤリと笑った。

「お前さん、実はそんなに視力は弱くねぇだろう。伊達眼鏡ってヤツかい」
「そうです……」

気恥ずかしさと居心地の悪さを感じ、敬語を使って視線を逸らす。眼鏡がないために目的を失った手は、そっと膝の上に乗せた。

「その目を隠すためかい?」
「……あまり、目立つのは好きじゃないから」
「もったいないねぇなぁ。綺麗な紺碧だっていうのに」

そうして笑う鯉伴の目の色も、紺碧色である。親子としての繋がりを可視化させるそれは、ナツメにとっては嫌いなものでもなかった。ただ、言外にこうやって指摘されると、気恥ずかしさが勝る。
ひとしきり笑ったあと、「さて」と鯉伴は居住まいを正した。

「最初に顔を合わせたのは、四月の頃だったか。フードをかぶり、眼鏡のせいで目元はちっともわからねぇ。交わした言葉もたいした量じゃない。それでも、どことなく感じられる懐かしさから、なかなか忘れられなかった」

唐突になにを、とナツメは戸惑いの目を向ける。
しかし鯉伴はその視線を無視し、言葉を続けた。

「次は五月。ひさびさの大きな出入りに様子見がてら行ってみりゃあ、人質になっているお前さんを見つけた。あのときは珍しく肝が冷えたもんだ。なにしろ、でっけぇナリの妖怪に掴まれて顔を真っ青にさせていたからな」

その口調はどこか楽しげで、思い出話というよりかは物語るようなものだった。
あの四国編では鯉伴に助けられた。並んで歩き、わずかな会話を交わしたひと時。改札で振り返ったとき、姿が見えなかったときの寂寞感を覚えている。

「そん次は七月か。熱中症寸前になるまで本屋を探すために外を出歩くなんぞ、よっぽど本好きだと思ったものだ。カフェで若菜と楽しげに話す姿は、大きくなったらきっとそうなるだろうと昔に想像していた光景によく似ていた」

若菜とナツメ。母娘で仲良くお茶をする姿。行きつけのカフェでのんびりと時を過ごすいつかの未来を、きっと鯉伴は夢想していた。
ナツメもまた、あの日のことを振りかえる。親子で過ごす穏やかな時間。それは前世のナツメならば想像もできない情景だった。もしも普通の親子だったら、自分が死なずに成長していれば、きっとこんな未来もありえたのだろう。そう考えながら彼らと談笑していた。

「そして今回。陰陽師の屋敷で血を流して倒れ伏しているお前さんを見て、一瞬、頭ん中が真っ白に染まった。京妖怪どもの人質にならなかったことなんざ、どうでもよかった。慌てて握ったその手の温かさに、力が抜けそうになっちまうほど安堵した」

幼いナツメを失ったあの日。抱きしめている血まみれのナツメの体温が失せていくことが、どれだけ鯉伴にとって恐ろしかっただろうか。死んでしまったナツメにはどうしたって分からない。しかし、いまの鯉伴の気持ちは分かる。
本当に、安心したのだろう。自分の娘によく似た少女が血に染まって横たわっている光景は、あの悲劇を想起させたはずだ。
腹と頭。傷の位置は異なれど、どちらも重傷ならば命を落としやすい部位だ。駆け寄ったナツメの手が温かいことが、どれほどこの人の救いとなったか。それは想像に難くない。

「ナツメ」

鯉伴は横に座るナツメに笑いかけた。
それは見慣れたあの飄々とした粋な笑顔とはほど遠い。
まるで笑うのに失敗したかのような、いまにも崩れてしまいそうなほどに下手な笑顔だった。

「見つけるのが遅くなってすまねぇ。お前さんにはずいぶん寂しい思いをさせちまったな」
「……っ」

鯉伴の手が、ナツメの頭に触れる。
びくりと微かに震える体を無視し、鯉伴は愛おしげに頭を撫でた。

「オレたちのところに戻ってきてくれて、ありがとう。
 ――おかえり、ナツメ」
「……うん」

ナツメはぐっと息を飲んだ。
そうしなければ、溢れてしまいそうだった。

「――ただいま、お父さん」

ただいまと口にしてから、ようやく気づく。
転生してから、ナツメはきっと、帰りたかったのだ。あの温かい家に。優しい家族に。せめてもう一度だけでもいいから、名前を呼ばれて抱きしめられたかった。死んでしまったナツメに対するように、家族としての愛情を向けられたかったのだ。

鯉伴に力強く抱きしめられる。
その体温を感じ、ナツメはそっと目を閉じた。

山吹色の道を思い出す。
血塗れの道。鯉伴の声。薄れてゆく生の実感。
再び始まった新しい生活のなかで、生き返ったはずなのに心はずっと死んでいたようなものだった。
本来ならばいないはずの自分の存在。幽霊のような感覚で、ただ原作をなぞって生きるだけの生活。生きる理由も分からず自己否定を繰り返して、それなのにどうしても死ぬことだけはできなかった。
寂しかった。孤独感が、心をずっと凍らせていた。ナツメにとって苦痛であったはずの家族の存在が、いつの間にかこんなにも大切なものになっていた。

「……ッ、うぅ」

冷たくなっていたはずの心が、伝わってくる体温と共にじわりじわりと溶けてゆく。
鼻がじんと熱を帯びて、ひくりと喉を鳴らす。自分の感情を認めてしまうと、もう耐えきれなかった。
目からぽろりとこぼれ落ちた水滴が、鯉伴の着物を濡らす。そのまま、ぽろぽろと堰を切ったように溢れだしてきた。

「うっ、うああ……っ」

懐かしい匂いに包まれながら鯉伴の着物を握り、ナツメは幼子のように声を上げて泣き続けた。




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