Angsthase | ナノ
ささやきの記憶


リクオの記憶のなかには、おぼろげながらも姉の姿が残っている。白く擦り切れた映像のような、姉の姿。たった数年しか共に生活を送れなかったが、それでもリクオにとっては大切な、優しい姉であったと覚えている。

目が印象的なひとだった。

たとえばある日の午後。彼女は縁側でぼんやりと風景を眺めていた。しかし、その目に映っているのは庭の木々ではなく、さらに遠くのリクオの知らぬ景色であるようだった。遠くの世界を、ただじっと、静かな目で俯瞰しているようであった。
リクオはそれを見かけるたびに、子どもながらにどこかへ消えてしまうのではないかと焦燥感を抱いたのを覚えている。そして慌てたリクオが名前を呼ぶと、ふっとその気配を沈め、「なあに、リクオ?」と暖かい穏やかな笑みを浮かべるのだ。まるでリクオの見たものは幻であったかのようで、そのたびにリクオは首をかしげたものだった。

いま思えば、あれは諦観に似た感情を湛えていたのではないだろうか。
どうしようもない先の未来を諦めて、じっと待つ被食者のような――死すべき最後の運命を受け入れる幼子のような表情を彼女は浮かべていたのだと、儚げな記憶を頼りにリクオは思うのだ。
思いかえせば、彼女――奴良ナツメはおおよそ子どもらしからぬ、静かな人でもあった。どんなにリクオがふざけて悪戯を仕掛けてきても、決して怒鳴ったり泣いて怒ることはせず、姉というよりかは母親のような包容力でにこにこと寛容に受けいれてばかりいた。はたして彼女が泣いたことはあったのだろうかと、リクオはいつも不思議な心地でいた。



そんなおぼろげな思い出のなかでも、あの日のことはよく覚えている。
いつものように外に出て遊んでいたはずなのに、決していつものようには終わらなかった日。リクオたちにとっては悲劇に相違ない、あの山吹色の春の日のことを。

あのとき、なにかもの珍しいものを発見してふらふらと父から離れたリクオは、そのすぐあとを追ってきた姉に呼び止められた。
いまでもはっきりと覚えている。リクオの手を握った姉は、父によく似た碧眼をきらめかせて、静かな声でこちらの名を呼んだのだ。

「リクオ」

彼女はどこか諦めたような、それでいて緊張に満ちた表情を覗かせていた。それは初めて見る姉の顔だった。

「……ねぇ、リクオ。お願いがあるの」
「なに? お姉ちゃん?」
「これから絶対に振り返えらずに家に帰って、カラス天狗かおじいちゃんをここまで呼んできてくれないかな? もし、早くリクオが帰ってこれたら、あとでいいものをあげるから」
「本当?」
「うん。だから、気をつけてね」

そうして彼女はリクオの手をゆっくりと離した。ぬくもりが消え、リクオはやけに手の寒さを覚えた。
その寒気は、まるで、いまにもふっとこの姉が掻き消え、もう二度と出会えないかのような――。

なぜだか急がないと大変なことになるような気がして、リクオはどうしようもない不安をかかえ、一心に屋敷まで走った。
幸いにも、玄関口に祖父はいた。リクオはその姿を確認するやいなや、全速力でその元へと駆け寄った

「――おじいちゃんっ!」
「おお、どうしたんじゃリクオ。出かけていたんじゃなかったのかの?」
「そうだけど……! おねえちゃんが呼んでるの! きて!」

リクオの様子からただならぬ事態であることを悟ったのか、祖父は険しい顔つきになり、「案内してくれんかの」と幼いリクオを抱きかかえて老体とは思えない早さで走りだした。焦燥感から、リクオは半べそをかきながら強く祖父の羽織りを握りしめることしかできなかった。

あれほど距離があるように思えたあの山吹の道には、あっという間に到着した。
舞い散る山吹色が目に入ったかと思えば、ハッと息を飲んだ祖父の手によって、リクオは目を塞がれた。

それでも一瞬だけ、リクオは姉の姿を見た。
見てしまった。

血の海と表現しても相違ないほどの、深紅の水たまりのなか、倒れ伏して動かない姉の姿を――。

「おねえちゃん……?」

真っ暗の視界のなか、赤色が目に焼きついて離れない。リクオの呟きを聞いた祖父の抱きしめる力がいっそう強くなった。
父である鯉伴は、遺体の側でただただ悲痛そうな声を上げていた。それはいつもリクオの前では余裕げのある立ち振る舞いをする父の、はじめて見せた動揺だった。

「ナツメ……ナツメ……ッ!」

山吹が風に吹かれて舞う。
ぴくりとも動かない大好きだった姉。
一心に姉の名前を呼びつづける父親。
ただただ無言でリクオを抱きしめ立ちつくす祖父。

これはもしかすると悪夢なのではないかと、リクオは祖父に抱かれながらぼんやりと思った。



「――ねぇ、どうしておねえちゃんはあそこで寝ているの?」

その質問がどれほど残酷なものだったのか、いまになってみればよくわかる。
葬式の際、花に囲まれじっと横たわっている姉を指さし、不思議そうに首を傾げる幼いリクオを、父は黙って抱き寄せた。その手はどこか震えていた気がする。
母はしばらくの間、笑顔を見せなかった。一度だけ、リクオが物陰から覗いたときに母は涙をこぼしていた。
組の妖怪たちも普段のように振る舞いつつも、ふとした拍子に顔に陰りを見せることが多かった。

たったひとり、いなくなっただけだというのに、屋敷はやけに寒々しくなった。着られることのなくなった着物。ぽつりと残された筆記具。彼女の匂いは色濃く漂っているのに、肝心たる本人はもうどこにもいなかった。
そのうちリクオは、子どもながらにもう姉は帰ってこないのだと悟った。成長してからは、あれが「死」というものなのだと理解した。空虚で、悲しくて、どうしようもなくつらいものなのだと……いつまでたってもみなの心に傷跡を残すものなのだと、知った。


「――八年前、オレの姉貴は羽衣狐に殺された」

遠野妖怪たちに囲まれながら、リクオはあの日のことを語る。
ざわりと動揺にゆれる空気は、しかしリクオの言葉を待ってすぐに静まる。

「“狐”という言葉は、屋敷にいりゃあ嫌でも耳に入ってくる。同時に、関西妖怪が台頭してきたってのもよく聞いていた。この因果が偶然じゃねえとしたら、あの時、姉貴を殺ったのは羽衣狐だ」

思い出すのは、真剣みを帯びた表情で会議をする祖父たちの姿だ。「“狐”が出た……」「総大将と若が目撃したらしい……」当時は狐がなんなのかは分からなかったが、十中八九それは羽衣狐で正しいのだろう。いつか祖父が討ち倒した狐の妖怪の名は「羽衣狐」であることを、幼いころから彼の武勇伝を聴いて育ったリクオはハッキリと記憶しているのだから。

「だから、あの女を討つために……姉の敵を討つために、オレは京都へ行く。この深い因縁を断ち切るために!」

顔を上げ、まっすぐに遠野妖怪の大将、赤河童の目を射抜く。彼の瞳を通して映る己の姿は、とうの昔に姉の歳を追い越してしまった。

あの穏やかで優しい姉が、復讐や因縁を断つために弟が京へ向かうと聞けば、どのような反応をするのだろうか。
きっと、反対するに違いない。あの、父親似の碧の目をそっと伏せて、困ったような様子でリクオの手を取り、ぎゅっと握ってくるのだろう。六歳の子供にしては悟った顔で、ただただこちらの心配ばかりをしてくるのだろう。自分が殺されたことなど仕方がないと諦めたまま、弟のことばかりを気にかけるのだろう。

――無茶はだめ。自分を大切にしてね、リクオ。

ふいにリクオは、己の名前を呼ぶ姉の静かな声を、もう一度、聴きたいと思った。





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