Angsthase | ナノ
3


「――ここに、何か用でもあるのかい」

真横に人が近づく気配がしたが、ナツメは振りかえることもせず、花をじっと見つめていた。可憐な一輪は雨水を滴らせながらも、ただ健気に咲いている。

「いえ……たまたま、ここに行きついたんです」

まるで他人事のような響きをしているなと、ナツメは返事をしながら考えた。
そっと目を閉じる。暗くなった世界のなかで、静かな雨音だけが耳元に響き渡る。
思い返す映像は、あの楽しかった日々のことだ。

――本当に、ここまで行きついたのは偶然なのだ。

偶然、この世界に生まれて。
偶然、あの家庭で愛されて。
偶然、ここで死んでいった。
それから、もう二度と訪れることはないだろうと考えていた場所に、再び赴くことができたのだって偶然だ。
必然性、恣意的なものなんてまったくない。

――本当に、ただの偶然だったのだ。

ナツメが目を開けても、隣の人間はその場から去らずに、なにか考えるようなそぶりを見せた。

「たまたま、ねぇ……。それにしちゃあ、随分とその花にご執心みたいだがな」
「あまりに綺麗だったので……つい」
「ははっ、そうかい。そりゃあ嬉しいねぇ」
「……あなたが、この花を手向けたんですか?」
「ん、そう見えるかい? 残念ながら俺じゃあねぇんだよな」
「そうですか……」

声のトーンを僅かに落として、ナツメは独り言のように呟いた。
隣の男はそれに気づいているのかいないのか、そのまま話を続けた。

「なにせ、これはオレたち皆で選んだものだからな。もしも、あいつらが好き勝手に思う存分花を置いていったら、ここらが花で埋まっちまう」
「えっ」
「厳選しまくった結果がこれなのさ。まったく、愛されてるよなぁ……」
「……、……そうですね」

ナツメは傘の柄を強く握った。
どうしてか、目の前にある澄んだ花が急に憎らしく思えて、引き千切りたい衝動に駆られた。
――ああ、“あの子”は愛されていた。
その事実と、未だに続く証に、なぜだかどうしようもなく許せないほどに憎悪した。

人の心は生まれた時から連続して存在しているものだ。しかし、あまりに時が経過し昔との心境が変われば、心をともなった思い出は、いつしかただの映像記録へと変わる。幼い頃の写真を差し出されても、あの時の心境を思い出せこそすれ、共感できないようなものだ。
特に、ナツメの場合は何度も転生をして環境どころか関係性を変えてきた身である。もはや八年前の記憶は、自分とは隔離した存在になっていた。
言うならば、奴良家で暮らしていた彼女は“かつてのナツメ”という名の別人でしかない。

「うらやましい……」

ナツメはぽつりと呟いた。隣の男性がどのような反応をするかなどという考えは、全く頭になかった。
それを後悔するよりも早く、無意識に口から出された言葉は空気を震わせる。
それと同時に、突然まわりの景色が水中を通して覗いたときのように歪み、雨音だけがわんわんと耳鳴りのように反響しながら霧散した。



「――……」

気がつけば、ナツメは施設のベッドの上で天井を見上げていた。

夢だったのだろうか。
仮にそうならば、どこからが夢なのだろう。
ナツメはぼんやりと窓へと視線を向けた。

ガラス越しに見える空は、寒々しいまでに晴れ渡っていた。





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