Angsthase | ナノ
03


駅に着くまでの数分間をさすがに無言で歩くことはできなかった。やや気まずい沈黙のなか、鯉伴はナツメにちらりと目を向け、しごく愛想のよい声を出す。

「お嬢さんは……巡里さんだったかい?」
「はい」
「ついでと言っちゃあなんだが、名前を教えてくれないかい?」
「……ナツメです」

まさか嘘をつけるわけがなく、正直に答える。
鯉伴がどのような表情をしていたのかは、俯いていたためにわからなかった。

「巡里ナツメ……いい名だねえ」

しみじみと呟かれる。
鯉伴から付けられた名前を謙遜でも否定することはできず、おとなしく「はい」と同意した。
ナツメという名前だけが、鯉伴と若菜から譲り受けた確かなものなのだ。いくらナツメが容姿を変えようとも、この名前だけは変えられない。書類の手続きが面倒だという話ではなく、ナツメ自身が変えたくないと思っているからだ。

この世に生まれてから初めてもらう親の愛情が名前なのだという言葉を、ナツメはふいに思い出す。
ここにトリップする前のものとは異なる、ナツメという名前。名付けられたときの記憶はないが、それでも愛を持って付けられたのかもしれないと考えると、少しだけ、胸が暖かくなったような気がした。

早足で歩いたおかげで、駅はすぐに見えてきた。
駅前特有の騒がしい光を目にして、ナツメは人知れず安堵した。あともう少し長く一緒にいたら、ボロを出してしまうような気がしていたのだ。

「それじゃあ、気をつけて帰ってくれよ。あと、これからもリクオと仲良くしてやってくれ」
「もちろんです」

ナツメは会釈をして、ようやく鯉伴から離れた。
電子定期券で改札を通り、鞄にそれを仕舞うがてら、ふと振り返ると、鯉伴が立っていた場所には若いサラリーマンが数人、楽しげに雑談を交わしていた。
鯉伴はもう、戦いの場へと戻っていったのだろう。ナツメは何事もなかったかのように前を向き、ホームへと歩き出した。





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