Angsthase | ナノ
2


十年前。奴良組本家。
牛鬼は総会のために、わざわざ山を下り、珍しく早朝からこの本家に赴いていた。

「こんにちは、牛鬼さま」

唐突に、鈴を転がしたような、涼やかながらも聞きなれない声が背後から掛けられる。牛鬼が振り向けば、そこには二代目の子女である奴良ナツメが立っていた。藍の模様が浮かぶ真白の着物は、父親に似た、彼女の黒い髪によく似合う。

牛鬼は日頃から厳めしいと言われ、またそれを自覚していたために、臆病だと噂される彼女がにこりと子供らしからぬ愛想笑いを顔に浮かべ、じっと牛鬼を見つめていることに驚いた。
初めて会うわけではないが、こうして面と向かって会話をすることは今までなかった。さて、この少女は何を言うのだろうかと牛鬼は半ば期待しつつ身構えたが、その小さな口から出たのは、予想外なことに彼女の弟の話題であった。

「私の弟……リクオはまだ小さいです」
「えぇ、そうですな」
「でも、将来は立派になります」
「……つまり?」
「リクオを不甲斐ないと思うときがあるかもしれませんが、絶対に牛鬼さまが支えてあげてくださいね」
「…………」

突然の願い事に唖然とする。牛鬼はナツメの顔をまじまじと見つめるが、母親似の柔らかいそこからは、何ら意図は読めなかった。

「定めだと言ってしまえばそうですが、やはりわたしは、牛鬼さまがリクオの味方でいてほしいのです」
「……ナツメ様ご自身のことはよろしいのですか?」
「心配する必要はないですから」
「しかし……」
「とにかく、リクオをお願いしますね。牛鬼さまなら、きっといい力になりますから」

浮かぶ笑顔はやはり母親似のようであり、父親似のようでもある。牛鬼は有無を言わせないナツメに気圧されて、渋々ではあるが、彼女の願いに承諾してしまった。

「よかった」

ナツメは幼児らしからぬ表情で、心から安堵していた。さぁ、これで用事は終わりかと思いきや、まだナツメはじっと牛鬼を見つめている。

「……本当に守るべきものがあったなら、刃向かうのもまたひとつの手ですけどね」
「――?」
「冗談ですよ。気にしないでください。牛鬼さまは噂通り、真面目な方ですね」
「……ああ」
「それでは……忙しいところを引き取めてしまって申し訳ないです」

お元気で、とナツメは一礼と共に姿を消した。突然かき消えた娘の姿を前に、牛鬼は目に見えて驚きを顔に出す。

「いまのは……」
「明鏡止水だよ。成長早ぇだろ、俺の娘は」
「……二代目」

いつからそこにいたのだろうか。ぬらりくらりと鯉伴は牛鬼の後ろから現れた。鯉伴はナツメが消えた先にある廊下を見て、表情を緩める。そこから察するに、どうやらこの総大将は、リクオの話題あたりは聞いていなかったようだと牛鬼は安堵した。
鯉伴に先ほどの会話を聞かれたところで何かがあるわけではないが、年若い少女のプライバシーくらいは踏み込まれるべきではないと牛鬼は考えていた。それに、次期頭首になるかもしれない少女の初めての願いとあらば、できることなら一対一で臨みたいと、真面目な牛鬼でなくとも思うことは当然だろう。

安堵も動揺もおくびにも出さず、牛鬼は鯉伴に質問を続ける。

「いつからできるように……?」
「リクオが生まれた頃くらいかねぇ。おかげでとんと捕まえられなくなっちまった。……にしても、あんなに真面目なナツメの姿は初めて見たな。あとでからかってやるか」
「ふ……、奴良組も安泰ですな」
「さぁな。ナツメやリクオが組を継ぐかどうかはあいつら自身が決めるんだよ」

真剣な口調そのもので鯉伴は言う。牛鬼は複雑そうな様子を見せたが、二代目総大将に反論することなく、結局、口を閉ざしていた。

「――牛鬼」

鯉伴の目が、真っすぐに牛鬼を射抜く。

「オレに何かがあったときは、あいつらのことを頼むぜ」
「……御意に」

牛鬼は頭を下げながら、命令がつくづく似た親子だと脳裏で彼らを並べ、微笑ましく感じていた。
そしてその日の夕方に、彼女の訃報が牛鬼の耳に届けられたのだ。




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