Angsthase | ナノ
3


畏について話そう。
畏とは、大きく言えば妖怪の力だ。妖怪は畏で相手を化かし、戦い、生き延びる。同時に、存在するための必要不可欠なエネルギーであり、それを失ってしまえばいかなる大妖怪といえども命を落とす。畏を得るための方法はさまざまであるが、これによって妖怪は強くなることができるのである。
恐怖、畏敬、羨望――畏は多面性を持っており、ただの恐れとは違うものだ。さながら一種の魅せる力である畏は、理性というものをことごとく凌駕する。言葉では言い表せない根源的な畏怖……それが畏なのだ。

そして、次にぬらりひょんについて。
この妖怪は、ぬらりくらりと気ままな妖怪と評されることが多い。気がついたら姿を表す、それだけの妖怪であると。
しかし、そうではない。ぬらりひょんの本質は鏡花水月。――夢幻を体現する妖怪なのだ。いつのにか家に上がり込んでいるのも、ふらふらと消えるのもその力の一端しかない。相手の認識をずらして幻の姿で惑わすのが、本来のぬらりひょんという妖の力なのだ。
それは逃げ回るだけの弱い技だと思われがちだが、活用次第では恐ろしいものと成りうる。なにしろ、認識を狂されるということは、『斬られたとしても、なにが原因かすら認識できないまま死ぬ』ことすら容易いのだから。


「……ふぅ」

ナツメは浅く息を吐いた。
長らく使わなかった感覚だったから発動は難しいと思っていたが、数度の練習でかつての感覚を取り戻したようだ。人間の記憶というものは案外、物持ちが良いものなのかもしれない。

廊下で立ち尽くすナツメの前を、小妖怪たちがぱたぱたと通りすぎる。いくら陰陽師娘がいないからといって、小妖怪がこんな大胆な行動を起こすほどはまずありえない。つまり、それはナツメの畏の発動が成功したことを表していた。

「(よかった……)」

人間も、妖怪も、誰も今のナツメの姿を“認識できない”。なぜならば、それがナツメの、ぬらりひょんの畏だからだ。
そこにいるのに見えないぬらりひょんの畏は、隠密能力としては最強だろう。現に、小妖怪はナツメのすぐそばの足元を通ったにも関わらず、彼女の気配すら察知できなかったようだ。

ナツメはかつて歩き慣れた廊下を歩きだした。その足取りは迷いなく、確固たる目的地を持って歩いているように見える。
事実、ナツメは明確な目的を持って、この行動を起こしたのだ。

「(……集会をやっているうちに辿りつかないと)」

心なしか、歩みが急いたものになる。
漫画の知識を頼りに奥へ奥へと歩いたナツメは、ある広間の襖の前でとうとう立ち止まった。
そろそろと壁側へ移り、腰を沈める。心臓が痛いほど鼓動を打っている。それでもなんとか落ち着かせようと、無理やり深呼吸をし、目を閉じて耳を澄ました。
すると、間もないうちに襖の向こうの声がナツメの鼓膜を刺激し始める。

「――リクオがまた妖怪になったというのに、それをよしと思っとらん奴なんじゃろうのう」
「そりゃーそうでしょうよ。いくら覚醒したとしても昼間は人間。しかも覚醒時の記憶がないとなれば……」
「だるま、貴様誰の味方なんじゃい!」
「ワシは組のためを思って言ったまでのこと! 現に旧鼠のような奴が本家のシマで暴れていたんですぞ! 早急に組を立て直さねば!」

ビンゴ。ナツメは口元を緩めた。
そう、ナツメの計画とは、鯉伴について探るためにこの集会を立ち聞きすることだった。
短絡的であり、どう考えても危ない橋を渡る行動だったが、ナツメにはこの手しか残されていなかったのだ。
奴良鯉伴の引退の理由について知る方法など、部外者には限られている。妖怪に聞き込みに回ったとして、見ず知らずの少女に元総大将の事情を教える者はまずいない。リクオに父親のことを訊いたところで、よもや致命的な傷を負ったことなどを部活仲間に明かすわけがないだろう。
だとすると、どの手段が残されているのか――。ナツメが元父親のことを気にしたと同時に考えたのは、つい最近戻った懐かしい能力だった。


懐かしい不思議な感覚を覚えたあのあと。ナツメは玄関で靴を脱ぎ、施設に上がった。耳に届く変わらない子供たちの元気な声を聴いて安心し、内心の気落ちを押し殺しつつリビングルームのほうに顔を出す。しかし、ただいまと言っても、誰も返事を返してくれないところで、ようやく何かがおかしいと気づいた。
挨拶厳守のこの施設ならば、ナツメが玄関に入ったと同時に声がかかってもおかしくはないのだ。それなのにこうやって顔を出しても誰もこちらに気づかないなんて――動揺したところで、ようやく同じ施設で暮らす子供がナツメのほうを向いた。

“ナツメちゃん、無言で帰ったらだめでしょー!”

そこで初めてナツメは、自分がぬらりひょんの力を取り戻したことを自覚したのだった。

「…………」

これも確実に有効な手ではないことはナツメも重々承知だ。その上で踏み切ることにしたのは、それ以上に鯉伴のことを気にかけているからだろう。原作との齟齬を知るのを理由としているが、それが建前であることはなんとなくナツメも自覚していた。

「――して、二代目はどうお考えで?」
「オレぁもう二代目じゃねぇよ。何年それを引きずるんだい」
「……っ、」

原作通りではない展開。やはり鯉伴も集会に出席していた。ナツメは潜めていた息をさらに殺して、襖の向こうに集中する。

「しかし、鯉伴様が二代目を降りられた理由がわかりませんのでねぇ……。あまり納得できないんですわ。リクオ様よりかは鯉伴様のほうが――」
「前にオレは言っただろうが。“一身上の都合”が理由だってな。第一、リクオに継がせるかどうかはオレらじゃねぇ。あいつ自身が決めることじゃねぇか」
「そのリクオ様が先日、三代目になるとおっしゃった。とはいうものの、やはり総大将ならば鯉伴様のほうがよいではないか?」
「……へぇ。そりゃあつまり、お前さんはリクオが組を継ぐのに反対ってことかい」
「そっ、そういうわけでは――」

ざわざわと襖の向こうがいっそう騒がしくなる。これ以上の収穫は得られないだろうと踏んだナツメは耳を遠ざけ、交わされた言葉を反芻して吟味する。
鯉伴は二代目を降りている。そしてそれは“一身上の都合”かららしい。幹部たちの反応を聞く限りでは、どうやら数回覚醒した程度のリクオよりも、鯉伴のほうが総大将に相応しいと考えられているようだ。

一身上の都合とは何なのだろう。ナツメは首を傾げた。そのはぐらかし方はいかにもぬらりひょんらしい。幹部にすらはっきりとした理由を告げていないのだから、よほど大きな何かに関わることのはずだ。
とにかく、とナツメは踵を返し、リクオの部屋へ戻ろうと足を向けた。
とにかく、鯉伴さんはまだ組員から期待されるほどには力が残っている。それを知れただけでも十分だ。

奴良組の屋敷を歩くナツメの姿は、やはり誰にも認知されなかった。





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