Angsthase | ナノ



――広間に戻ったリクオたちが、今度はリクオの祖父であるぬらりひょんの介入を受けたのは余談である。

さておき、陰陽師娘を中心とした訪問者たちがようやく去り、奴良組の面々はほっと安堵する。先ほどまで彼らがいた広間では、大勢の妖怪たちがぐったりと畳の上で倒れていた。

「つ、疲れた……」
「まったく、ワシを見習わんかい。たかが陰陽師の小娘一人に大慌てしよって。ワシなんて大昔は陰陽師の本家に行って、飯を食って帰ってきたこともあったぞ」
「さすがにそれは総大将しかできません……」

木魚達磨と他の妖怪たちが対処法についてわいわいと騒ぐなか、鯉伴はふらりと縁側に出た。
思案するような顔つきで、庭を眺める。その胸中にあるのは、先ほど出会った少女のことだ。
俯きがちにフードを被り、眼鏡を掛けていたために、顔つきはあまりよくわからなかったが、手を握ったときの反応が亡くした娘のものとそっくりだった。鯉伴は久々に聞いた言葉を思い出し、思わず笑みをこぼした。

「セクハラ……ねぇ」

――セクハラと言われて笑うような、奇特な人間(妖怪)はそうそういないだろう。たまたま近くを歩いていた妖怪は、引き気味に鯉伴のその表情を見て目を逸らしていた。しかし鯉伴は気にすることなく、先ほどの光景を回想する。
おどおどとした仕種、歩き方、そしてあの発言。どれも懐かしさを感じさせる行動ばかりだった。リクオの友人だというあの少女のことが、なかなか頭から離れない。
しかし、と鯉伴は首を振り、思考を切り替える。今の鯉伴にはそれよりも優先して考えなくてはならないことがあった。

「(鼠の動きがいよいよ怪しくなったな……)」

最近、一番街で鼠の話を聞くようになった。確か、鯉伴が知る限りでは、あそこ一帯を取り締まるのは化け猫組の妖怪たちだったはずだ。間違っても、鼠を入れることを許すような輩ではなかったはず。
だというのに、鼠たちがちょろちょろと、まるで侵食するように一番街で出るようになった。噂では、人間が死ぬようなことまで起きてしまったらしい。どう考えても平穏とは言いがたい雰囲気だ。

「今夜か、明日か……。どっちにせよ、オレには関係ねぇ話になるか」

キセルをくるくると手のなかで弄びながら、鯉伴は自室に向かって歩きだした。
数年前まで奴良組の二代目総大将だった鯉伴は、“一身上の理由”からその立場を降り、隠居をしていた初代のぬらりひょんに譲った。
死んだわけでも、致命的な怪我をしたわけでもないにも関わらず、事実上の引退をする――その真意は奴良組の側近にすら知られていない。

巷では、引退の同年に亡くした娘の精神的動揺が大きかったのだとか、本当は大怪我をしているのだとかといった、あながち間違ってもいなさそうな説が囁かれている。目付役の烏天狗などの重役が否定しない以上、これから先もそれらの噂はとうてい消えそうになかった。
もちろん、このような噂がある以上、本人に直接訊くような者たちは多く現れた。しかし、その答えはいつも同じ。「一身上の理由は理由さ。文句があるなら闘ってみるかい?」そうして、にやりと粋な笑みを浮かべながら、鯉伴は祢々切丸ではなくなった刀で肩を叩いた。

なるほど、闘えばいつも通りに強い。では娘を亡くしたショックからなのだろうか――。
いくらそう考えたところで、奴良組の妖怪たちがそれを鯉伴に強く訊けるわけがなかった。
なにしろ、娘を亡くしたのは、引退してなお強い鯉伴が現役だった頃に、不意打ちで傷を負いかけたのを娘が庇ったらしいのだ。しかも命を狙った敵は逃亡。敵討ちすらできていない。これをショックと言わなくてどう言えようか。

――でも、鯉伴様に限ってそんな……。

飄々として、いつも捉えどころがない人だ。娘の死ごときでそこまで動揺するだろうか。いや、あんなに寵愛なされていたんだ。落ち込むことくらいはあるだろう。――本家の妖怪たちは特に、鯉伴の娘を気にしていただけに、彼女の死を軽く受け取めることができなかった。だからこそ、本家内ではわずかながらに同情めいた空気も流れていた。

――仕方ない。しばらく休ませておきましょうよ。

いつしか、そんな言葉を口にする者が出るのは、当然の帰結だったのかもしれない。

そして本人の鯉伴といえば、みなが考えるようにセンチメンタルに浸るわけでもなく、ましてや組を従える気力がなくなるほど精神が弱っているわけでもなく、ふらふらと呑気に日がな一日どこかに姿を消すことが多かった。それがさらに噂を助長させることになっても気にせず、むしろ楽しんでいるふうにも見えた。

“オレは狐を捕まえたいんだ――絶対にな”

いつか代を降りるときに、鯉伴はぬらりひょんにそう言ったらしい。が、それはまた別の話だ。

「あら、またお出かけ?」

鯉伴が自室の襖に手をかけたとき、タイミングを計ったかのように若菜がひょこりと顔を出した。
まさにいま部屋に戻ろうとしている人を見て、出かける予定を訊ねるなど明らかに変わっているが、鯉伴はそれが正しいと言わんばかりに雰囲気を和らげた。

「まぁそんなとこだ。で、どうしたんだい?」
「さっきからリクオを見かけなくてねー。お使いを頼もうとしたのに……どこに行ったのかしら?」
「リクオ? 広間にいなかったのか?」

先ほど広間で毛倡妓に団扇で扇がれていたのを鯉伴は見ていた。しかし、若菜は首を振る。

「えぇ、覗いたわ。でもいなかったのよ。……そうだ! 鯉伴さん、お使いを代わりによろしくできない?」
「ん、あぁ。いいぜ」

なんとなしに鯉伴が言えば、若菜は花が咲いたような笑みを浮かべてメモ帳を渡してきた。軽やかな足取りで歩く若菜の後ろ姿を見て、鯉伴は苦笑しかけた。

「(さすがだな、若菜は……)」

お使いを息子に頼もうとした。しかし息子がいなかったので代わりに父親に頼んだ。字面だけで見れば、普通の家庭でもありそうな場面だ。しかしここは妖怪任侠一家。普通に行動をすれば危険が伴う可能性があるのは当然の世界だ。さらに若菜は数年前に娘を亡くしている。そんな母親が息子を一人でお使いに出すわけがなかった。鯉伴自身、リクオを一人で外に出す気はさらさらないのである。
とすると、若菜の行動には裏があることになる。――つまるところ、若菜はこう言いたかったのだろう。

――リクオの姿が見当たらないから、探してきてくれないかしら?

さすがだと鯉伴は苦笑しかけたのはこういうことだった。懐に拳銃を隠し持っていたり、盗聴の恐れがあるかもしれないと言葉を直接伝えなかったりと、さすがは極道の妻になるだけはある。若菜はしたたかな女性だった。

「……仕方ねぇな、行ってくるか」

その数十分後、息子が破門状を持って帰宅するとはつゆとも知らず、鯉伴はゆるりと消えていった。





×
「#寸止め」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -