Galgenhumor | ナノ

2


とうとう、この日がやって来てしまった。
使い古されたテンプレのような言葉が脳裏に浮かんだ。

私は漫画しか読んでいないから、正確な日付なんてものは知らない。でも、“今日がその日だ”と直感していた。
入学間近、山吹が咲き始める季節。
もう六年も経ったんだなぁだなんて、柄にもなく感傷に浸ってしまう。
長く、そして短い時間だった。最初は大嫌いで、ストレスでしかなかったこの世界に、いつの間にか安心して愛おしくなってしまうくらいの変化があるくらいには密度の濃い時間だった。まさか自分がこうなるなんて、昔だったら想像もつかなかった。

「あっという間だったなぁ……」

幼い山吹乙女さんの姿を目の当たりにして、私が言えたのはそれだけだった。


リクオと私、そして山吹乙女さん。用事が出来たと言って抜けた鯉伴さんを除き、最初は三人だけでいろんな遊びをした。
普段は過保護な組のみんなによって缶詰にされていたから、リクオは本当に楽しそうに笑って遊んでいた。
そして私自身も。

――もし、こんなお姉さんがいたら。

そう考えてしまうほどに、幸せな時間だったのだ。

「リクオ……その娘は……」
「お父さん! 遊んでくれたんだよ、このお姉ちゃんが!」

用事を終えて帰ってきた鯉伴さんを入れて四人。

これが夢だったらいいのに。
どんなにそう願おうとも、物語通りに時間が進み、刻々とあの場面が近づいていることは事実だった。
逃げだしたくなる脚を無理やり地面に押さえつけて、いつも通りの表情を取りつくろって私はリクオたちと遊ぶ。もしかしたら私は、この先に起こることから目を反らしたかったのかもしれない。

「……鯉伴、さん」
「ん、なんだい」
「……、ううん。なんでもない」

何も知らない鯉伴さんに、これから先のことを言うことすらできなかった。
この少女が山吹乙女さんで、鯉伴さんを殺すために生き返させられたなんて、どうしてもこの優しい人に私は告げられなかった。
あぁ、私は本当に臆病者だ。

「綺麗な色だねー!」

リクオの明るい声が響く。
とうとうあの山吹の道に着いたのだ。私は逃げられなかったことを悟り、くらりと目眩を起こした。

――自分がいちばん大切じゃないの?

ふいに自分の声が甘く囁き、惑わそうとする。
弱気になった私は、ふらりとそちらに流れかける。いくら恩人だからって、自分の命を危険にさらしてまで助ける必要なんてないんじゃないのか。せっかく生まれ直せたんだから、死んでしまう運命の人なんて放っておいて、私は私の人生を好きに生きるべきなんじゃないのか――。
でも、鯉伴さんと山吹乙女さんが楽しそうに会話をしている姿を見ているうちに、自然と私の中で渦巻いていた迷いが収まった。

そうだ、私は誓ったんだ。
絶対に救うと決めたんだ。

私は自分の手を強く握りしめ、何かに興味を示そうとしたリクオに向かった。

「……ねぇ、リクオ。お願いがあるの」
「なに? お姉ちゃん?」
「これから絶対に振り返えらずに家に帰って、カラス天狗かおじいちゃんをここまで呼んできてくれないかな? もし、早くリクオが帰ってこれたら、あとでいいものをあげるから」
「本当?」
「うん。だから、気をつけてね」

……これで仮に何かが起こっても、リクオには嫌なものを見せることはないだろう。
いいものはね、リクオ。それはあなたのお父さんなんだよ。
悲惨なあの未来(原作)を知らなければ、そんなものがプレゼントだとは絶対に分からないだろう。
できることなら、いや、あの幼い子供には決して理解をさせないようにしなくては。
だんだんと小さくなっていくリクオを確認して、私は踵を返し、鯉伴さんの元へと急いで駆けていった。

「――“七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき”……」
「……っ!」

鯉伴さんの和歌を読む声が聴こえてきた。
まずい。鍵が読まれてしまった。
早く。早く。
足がもつれそうになって、それでも倒れずに走り続ける。
ここに生まれてから、逃げ足が速いのだけは自慢だった。
だったらそれを、いま活用しなくてどうするんだ。
山吹乙女さんの様子がおかしくなったことに、鯉伴さんはまだ気づいていない。間に合わなくては。私がなんとかしなくては――。

「――おとうさんッ!」

無意識のうちに、鯉伴さんに向かって叫ぶ。それと同時に、前世の私の父親の姿が脳裏を掠めた。
そうだ。同じ父親でも、あの人とは全然違った。私はずっと変わっていて嫌な子供だった。前世を知っているだなんて、言えるわけがなかった。迷惑だってたくさん掛けた。心配だってたくさんさせた。
でも――それでも鯉伴さんは私を愛してくれた。
だったら、救うのに躊躇いなんてない。
見返りなんてなくてもいいから、今だけは――!

「あぁああああ――……ッ!!」

山吹乙女さんに向かって思いきり体当たりをする。勢いがあまり、そのまま地面へと二人で倒れこむ。鯉伴さんが驚いたような声を出していたけど、振り向く元気なんて疲れきった私にはない。ただ、鯉伴さんが無事だということが確認できたら十分だった。
やり切った。これで回避できた。
ついつい顔が綻んでしまう。

「やった……ぁ、――っ?」

腹部が、何故か熱い。
幸か不幸か。下を向けば、山吹乙女さんの刃が私の腹部を貫いていた。

――あ、刺さったんだ。

感慨もなく脳内で呟いた瞬間に、口から大量の血液が吐き出された。
どうやら、操られた山吹乙女の手元が都合悪く狂い、倒れた拍子に私に刺さってしまったらしい。これでは、ついでに羽衣狐の復活ルートを曲げることができなくなってしまった。……まぁ、ついでだったから、べつに問題はないんだけど……ね。
揺らいでいく意識のなか、そこまで考えたところで、また咳と共に血が出ていった。
山吹乙女さんの叫び声が辺りに響く。彼女は悪くないのになぁ、なんて、痛みでぼんやりとした頭で考える。

「ナツメっ!?」

私を抱き抱えた鯉伴さんの、動揺した顔が視界に映る。
だめだよ。まだ敵がいるんだから、そんなよそ見をしていたら――。
いつの間にか、辺りに響いていた悲痛な叫び声は、落ち着いた女の声のものへと変わっていた。その背後には、他の妖怪たちの姿も確認できる。

「ほぅ。なんじゃ、孫もいたのか。口惜しや……どこまでも読めぬ血よ……」
「おめぇらは……!」
「よいよい。ぬらりひょんの子よ。今日のわらわは満足じゃ。これで去ってやろう。……お前らを殺す機会は何時でもあるしのぅ。それとも、ここで子の仇討ちでもしたいのかの?」

羽衣狐たちは嫌な妖気を出しながら私たちを囲む。その口ぶりは明らかにこちらを見下す色に満ちていた。
鯉伴さんは今にも祢々切丸を抜いて、羽衣狐たちに斬りかかろうとしている。
でも、瀕死状態の私を庇いつつ戦うのは、さすがに鯉伴さんといえども苦しいはずだ。そうでなくても相手は羽衣狐を筆頭とした古い妖怪たち。たとえ百鬼がいたとしても、厳しい戦いになるに違いない。
だからといって、ここで私が逃げるように言ったところで、優しいこの人が死に体の私を置いて引いてくれるわけがない。
一体、どうするべきなのか――。
と、そのとき。糸が京妖怪たちを攻撃し、聞き覚えのある声が響いた。

「ナツメ様! 大丈夫ですか!」
「お、首無かい……?」

そうだ、忘れていた。
出掛ける直接に、万が一のことを考えて、一番頼れる首無に頼んでおいたのだ。

――鯉伴さんに見つからないように、こっそりと見守っててね?

あまりに首無が不思議そうな顔をしていたから、もしかしたら、ここにはやって来ないと思っていたのに。
私が想像していた以上に、彼は忠誠心が厚かったようだ。

「ほう、援軍か……。まぁよい。ここで事を構えるつもりもないのでの。せいぜい子を亡くす苦しみに苛まれるがよい」

羽衣狐はつい、と手を払うと、京妖怪たちを引き連れて去ってゆく。私の命や鯉伴さんたちへの興味など、ハナからないのだろう。

「おい、待て! ――チクショウ。首無は後を追ってくれ。オレはナツメを癒したらすぐに向かう」
「はい!」

威勢のいい返事と共に、首無の足音がどんどん遠ざかる。きっと、鯉伴さんの指示通りに羽衣狐たちを追ったのだろう。
あぁ、これでもう大丈夫だ。ようやく心から安心できて、私は長く息を吐いた。

「ナツメ、ナツメっ! しっかりしろ!」

かすれた視界の中で、必死にこちらを覗き込む鯉伴さんの顔が映った。
あぁ、私は死ぬんだな。
身体は熱いくせに、脳だけは嫌に冷静だ。

これから、私はここで死ぬのだろう。腹は痛いし、肺も痛い。刀で切られた箇所は想像以上に痛手だったらしい。子供の身体には深刻すぎる傷を負いすぎた。
死を自覚した途端に口から出たのは、自分でも意外なことに、謝罪の言葉だった。

「――……ごめん、なさい。おとう、さん……。
 たくさん……めいわく、かけて――……」
「――ッ、そんなモンで、オレがナツメを嫌いになるわけがねぇだろうがっ!!」
「あぁ……。――よかっ、たぁ……」

予想通りの答えだった。
優しい鯉伴さんだからこそ、そう言うと思っていた。
分かっていたはずの言葉なのに、なぜだか今は、それがすごく嬉しい。

目が熱くなって、頬を水滴が伝うのを感じた。これは、私が泣いているのだろうか。私は自分の頬が緩むのを自覚しながら、ゆっくりと目を閉じた。

たとえそれがもう醒めない夢だとしても、今なら幸せだと、幸せだったと、胸を張って言えるはずだ。



降りしきる山吹に囲まれて、娘は父の腕の中で息を引きとった。自分の名を何度も呼び、必死に癒そうとする父親の声を聴きながら、意識は暖かい闇へと墜ちてゆく。

もう醒めない夢の中で、娘は幸せそうに微笑んだ。

「ありがとう」





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