Galgenhumor | ナノ

2


ナツメはどうやって自分の部屋まで辿り着けたのかは覚えていない。けれども、気がつけば、彼女は部屋の前の縁側でぼんやりと月を見上げていた。

「…………」

無言でナツメは月を眺め続ける。
刻々と物語は始まりへと向かっていっていることを、彼女はその肌で実感していた。元々、昔から好きな漫画の話だ。ナツメは素直にそれを祝福したかった。彼が誕生したその瞬間から、あんな話やこんな話が紡がれて、多くの人を楽しませたのだから。もっと喜んで、原作を妨害しないように努力をして。――だというのに、なぜ、こんなにも嬉しくなれないのだろうか。

「随分と元気がないみてぇだな、オレの可愛い娘さんは」
「っ!?」

どこから現れたのか。それをぬらりひょんに聞くのは愚問に決まっているけれども、ナツメは今ほどそれを考えたくなったときはなかった。
なぜなら、この粋な父親は、あろうことか自分の娘を米俵か何かのように抱き抱えると、一気に屋根の上まで飛んだのだ。いくら妖怪とはいえ、行動力がありすぎるのではないか。万が一、娘を落としたらどうする気だったんだろうか。
ナツメは、動揺から大量に吸い込んだ息を、思いっ切り吐き出した。

「い――っきなり、なにするのっ! はなしてよセクハラぁ! はなせぇっ!!」
「……今日はいつにも増して荒れてんなぁ。一体どうしたんだい、ナツメ。オレに理由を話してくれねぇかい?」
「やだ」
「ははっ……こりゃあ本格的だねぇ」

じたばたと遠慮なくナツメは暴れたが、鯉伴は決してナツメを掴む腕を緩めなかった。屋根の上という場所ゆえに、離したら危険なのもあるのだろう。だったら逆に、この際だから、蹴ろうが殴ろうが構わないのだろうかとナツメは思った。どう足掻こうとこのぬらりくらりとした男は離してくれないのだから、それくらいの仕打ちはされるべきだ、と。
反抗する娘は、父親を蹴ってまた叫ぶ。

「……だって、どうせ、りはんさんはそんなのきにしないでしょー! わたしのかってじゃない!」
「気にするさぁ。オレの大切な、大切な娘なんだからな。――しょんぼりと元気がない子供を放っておく親が、いってぇどこにいるんだい」
「……いつか、いらなくなるもん」
「ん?」
「すてるもん。……わたしが、いいこじゃないから」

抵抗の手を止めて、小さく、悲しそうに吐き出されたナツメの言葉に、鯉伴は眉を潜ませた。
いい子じゃない、だなんて、いったい誰が言ったものなのだろうか。そんなことを子供に聞こえるように言った奴も奴だが、それを真剣に受け止めて落ち込む自分の子供もとことん真面目だ。……いや、己が幼かった頃も、小さなことを気にしていた時期があったような気がする。はっきりと断言できないのは、なにせ数百年前のことなので記憶はほとんど無いに等しいからだ。だが恐らくナツメほどではなくとも、やはり鯉伴も子供だったならば落ち込んでたかもしれない。
鯉伴は、俯く娘の頭を優しく撫でた。
子供はみんな純粋だ。山吹乙女の寺子屋に通っていた子たちもそうだったし、現代に生きる子だってそれは同様だ。特に、この幼い我が子は人一倍聡くて、敏感で、臆病だった。
普段からどうやって他人と触れ合えばいいのかも分からない子が、さらにそんなことを言われたらどうなるかなんて、この状況を体験しなくても想像できる。
どうしようもできなくなって、暴れたくなったりするのは当然だろう。もしかしたら、自分が知らない間にもう既に泣いてしまったかもしれない。
滅多に涙を流さない娘が、息を殺しながら泣く姿を想像すると、鯉伴は自然と長ドスへと手が行きそうになった。それをなんとか抑えつつ、すっかりおとなしくなった娘を自分の膝の上に乗せた。

「それぁ誰が言ったんだい。なんなら、今すぐオレが切り捨ててくるぜ」
「べつに、だれもいってないけど……」
「けど?」
「おとうとがうまれたら、わたしなんて……」
「……はぁ、そういうことかい」

鯉伴が息を吐き出せば、ナツメはびくりと身体を震わせた。
次に鯉伴の口から出てくる言葉を身構えて、自然と身体が固まってしまう。
そんな様子を見て、鯉伴は皆から粋だと言われる笑みを浮かべた。

「オレはナツメを捨てたりなんかしねぇさ。どんなに皆が好き勝手言ったって、オレはナツメを愛してんだから」
「ダメなむすめでも? みんなのめいわくになっていても?」
「ああ、どんなにダメでも、迷惑をかけていようとも構わねぇ。ナツメがオレの娘であるだけで、愛するには十分だ。どんなふうになろうとも、オレにとっちゃあささいな問題でしかねぇ。……だから、安心してここにいいんだぜ、ナツメ」
「……、……うん」

ナツメが頷いた途端、その目から涙が一粒零れた。それを見た鯉伴が動揺して声を上げれば、さらにナツメは涙を流し出した。

「ありがと……、おとうさん」

鼻声で呟いたその言葉を、鯉伴は笑って受け止めた。
一緒に抱き合う親子の姿を、月はただ静かに照らし続けていた。





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