∴ 天樂パロ仁王夢
―――それじゃあ、サヨナラ。
そして彼は、目の前で消えた。
いつものように、私は傘を差して、信号が変わるのを待ち続ける。どんよりと曇った空からは、雨がしとしとと降り続けていた。どこからか車が低い唸り声を上げて、目の前に現れた。排気口から白い煙を吐いて、雨を押しのけながら通過する。私の隣にある水溜まりがパシャン、と軽く跳ねてどこかへ飛散した。
水玉の傘をくるりと回す。
あの人はまだ、やってこない。
雨は小さな川になって、足元にある排水溝に流れこんでいる。信号は赤を告げたまま、いつまでも光り続けていた。いい加減、退屈になってきたな、と私は小さく呟いた。いっそのこと無視して渡ろうかと思い、びしょ濡れの脚を前に動かそうとする。するとすぐに信号は止まれ、と私に向かって叫び声を上げてくる。これを繰り返すのは何回目か。青い時間は随分昔に見たような気がした。
「……お前さん、何しとるんじゃ?」
こんなところで、と訝しむような声が背後からかけられた。私は振り返ずに、傘をくるりと回す。幼い頃は何度もこれをして、水滴を飛ばしてはお母さんに怒られていた。
「前に進むのを待ってるの」
「前?」
聞き返す声には、困惑の色が含まれていた。低い声色から察するに、恐らく、男子なのだろう。
木々が風に吹かれて、あちこちで歌う。綺麗な緑葉が地面に舞い散った。灰色のアスファルトにはよく栄える色だ。そういえば、紅葉も綺麗な組み合わせだった記憶がある。
「……昔ね、ここで立ち止まったんだ」
「誰が?」
「とある男の子が」
とある、なんて空々しく言ったけれど、本当は友達以上、家族と同じくらい大切な存在だ。
今でもはっきりと思い出せる。目を瞑れば、あのときの光景がゆっくりと再生された。
手を伸ばす私。手を掴もうとする彼。驚いたような、悔しがるような表情で彼は私を抱き寄せようとした。車のブレーキ音が世界を刺して響く。揺れる視界。彼は私の目を見ながら口を動かした。
消えゆく意識の中、私が最後に聞いたのは別れの言葉。
「―――私は、早くその子を進ませなくちゃいけない。いつまでも、立ち止まってたら駄目だから」
「……そーか」
「もっと、世界を知ってほしい。私とあなただけの居場所はもうないんだから、あのとき約束したんだから」
「……」
背後の男子は黙り込んだ。辺りには雨音だけが響いていた。
信号がちかちかと点滅する。赤と青が交互に光る。故障でもしたのかな、と私は雨の歌を聴きながら思った。だったら、大変だ。これが壊れたら、大変なことになるのに。
パシャ、と水溜まりを踏む音が背後で鳴る。どうやら、男子はこちらに近づいているようだった。ピチャ、パシャ、と水があちこちに押し出されて落ちる。遠くから車のエンジン音が聞こえた。
私はもう一度、くるり、と傘を回してから、振り返った。
そこには、やはり、男子がいた。傘を忘れたのか、はたまたわざとなのか、綺麗な銀髪や制服が雨に濡れて、べったりと彼の身体に張り付いていた。傘を僅かに横にずらして、男子を傘に入れる。いくらか背伸びをしなくてはいけないが、濡れて風邪を引かれるくらいなら、これくらい平気だ。
男子の顔は蒼白だった。整った顔をしているのに、この白さではさすがに痛々しい。険しそうな表情で、男子は私を見つめていた。
「×××…」
きっと、私はこの男子を知っている。男子が口にしたものは聞き覚えのない単語だったし、核心はないけれどもそう思った。そして、この人も私を知っているのだろう。記憶が無くても、どこかで私たちは会ったことがある。そんな気がした。
いつの間にか、信号は青に変わっていた。昔から子供たちに歌われつづけた有名な曲が、横断歩道を渡れることを軽やかに告げている。私は傘を男子の上から外して、横断歩道に身体を向けた。その際に、なにかに堪えるような男子の顔がちらりと視界に映る。その男子の顔は、私がよく知る゙彼゙の顔にそっくりだった。
そして一歩、踏み出す直前、私はにこりと笑って言った。
「それじゃあ、サヨナラ」
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