∴ ひとりごと
その日、五条がたまたま手に入れたその写真には、懐かしい男の姿がぼんやりと写し出されていた。男は雑踏のなかでひっそりと佇んでいた。跳ねた黒髪に、穏やかだが隙のない立ち姿。隣に立つ人間に向ける相貌は目鼻の線すら曖昧で、明確に記述することは困難であった。しかし五条の有する記憶の働きにより、ぼんやりとした実像は鮮やかな虚像へと移り変わっていった。
おそらく、これは笑顔だろう。それも単なる笑顔ではない。道理の通じない人間に対してよく浮かべていた、相互理解を諦念しつつ相手を見下す色のある笑みなのだろう。五条が学生だったときには別段気にかかるものではなかったが、今になって呆れる心持ちがすこしだけ湧き上がる。当時はクズだの思いやりを知らないだのと文句を散々言われたものだが、自分よりもこの男のほうがよっぽど酷くはなかろうか?
とはいえ。五条はふと意識を切り替えた。そんな懐かしい笑みよりも、よほど気にかかるものがあった。写真の片隅に映る男の装束。全体像は人影に邪魔されて確認できないが、それでも、この男が黒い着物と色鮮やかな布を身に纏っていることは把握できた。――つまるところ、それは五条袈裟だった。
「……昔っから、わりと形から入るタイプだよなぁ」
しみじみとした声を漏らしながら思い出すのは赤色のアロハシャツ。せっかくの沖縄の海なのだからとハイビスカス柄のシャツを羽織った青年は、長袖のパーカーを着込んで念入りに日焼け止めを塗る五条の横で、眩しげに目を細めていた。
「どうせ、ちょうどいいとか、初心を忘れずにいたいとか、そういう、大した理由じゃないんだろうけど」
たとえば勉強する際は机に向かってノートを広げる。クリスマスにはケーキを買ってくる。これはそういった行為と同等の重みしかないのだろう。この五条の推定は、親友だから理解できるという曖昧な傲慢さによるものではない。単なる過去の事実の集積によって弾き出された結果だった。ゆえに、五条の呟く言葉に悲嘆の色はなく、ただ郷愁の念だけが滲んでいた。
しばらく頬杖をついて写真を眺めていた五条であったが、ふと机上の携帯電話が振動しはじめたことに気づいてその視線を外した。持ち上げられる電話と入れ替わるように、写真が机上に置かれる。
その後の室内には、元後輩に対して電話越しに仕事への不満を口にする声だけが、明るく響き渡っていた。
了
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