∴ ガラスの消失はいまだ遠く
HP/FB夢アンソロジー、『ワルプルギスの舞踏会』に寄稿したスネイプ夢です。掲載可能期間になりましたのでweb公開します。それに伴って、見やすくするために改行を増やしました。内容は当時と同一です。
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花を食む夢を見た。
夢のなかの私は、雲ひとつない青空の下、花たちに囲まれながら腰を下ろして笑っていた。シオン、ハマユウ、ラベンダーにチューリップや名前を知らない花まで。数え切れないほどの種類の花が、あたり一面咲き乱れている。
そのなかで座りこむ私は、まぶしいほど鮮やかな花弁たちを無造作に掴み、毟り取って口に入れた。花弁を噛みしめるや否や、じわりと不快な汁が滲み出てくる。苦くて苦くてたまらないはずなのに、私にはそれがどうしようもなく嬉しくて、また口に含んだ。ああ、なんて苦いんだろう。苦くてたまらなくって、こんなに苦しいと、うっかり泣いてしまいそうだ――。
ハッと瞼を開けてはじめて、自分が眠っていたことを認識した。
先ほどまで広がっていた極彩色からほど遠い眼前の暗闇に、わずかな間、身を硬直させる。そうして、聴き慣れはじめた時計の秒針の音を確認して、そっと安堵の息を吐いた。
目の前の世界が暗いのは、今が夜であるからだ。電気を消して寝入ってしまったために、驚くほどに闇が深い。窓の外は曇り空で、月光すら確認できない。時刻は、十人に尋ねたらその全員が夜だと答えるほどには、充分すぎるくらいに真夜中だった。
ソファーの上で寝入ってしまったためか、身体の節々が強張っている。無理に動けば痛みに呻く予感が容易(たやす)くできて、若さを失いつつあることに慣れている自分に対して嘆息してしまう。学生の頃はどんなに劣悪な環境――床の上や机の枕など――でも、疲労を覚えずに眠れていたというのに。寝返りが制限される程度の場所での睡眠に身体を痛めることにも、それを当然のように受け入れている自分にも、なんとも物寂しいものを感じた。
ゆっくりと手足を伸ばしつつ、そっと身を起こすと、身体の上からずるりと布が滑り落ちかけた。慌てて手で押さえると、馴染みのある生地の感触がした。暗闇の中なので断定はできないが、恐らくは彼の物だろう。……寝ている間に布を掛けてくれるという、なんとも温かみのある行為と、脳裏に浮かぶ彼の印象が似合わず、なんだか妙な気持ちになってしまう。
枕元にある杖をポケットに入れつつ、今度こそ身を起こして立ちあがる。ギシギシと音を立てながら階段で一階に降りると、はたしてそこには、この家の主が新聞を広げて紅茶を飲んでいた。
「おはようございます――スネイプ先輩」
「これを朝だと思えるのならば、君の体内時計はさぞ地球裏での生活に適合できているのだろうな」
彼はこちらに目をやることもなく、皮肉だけ投げ返した。返事が来るだけマシだなと思ってしまうのは、この気難しい先輩との付き合いがそれなりにあるからだろう。
テーブルの上を確認したが、当然のように私のご飯はない。ただ先輩の飲みかけの紅茶があるだけだった。時間帯から鑑みて、用意してあるほうがむしろ驚くべきことなので、特に気にすることはなかった。
居候の身ならば、食料は己で用意するべし。心中で唱えつつ、足元に置いてある自分の買い物袋を持ち上げた。遅すぎる朝食となるが、律義に朝日が昇るまで我慢するつもりはなかった。なにしろ、お腹が先ほどからぐうぐうと空腹を主張しすぎていて、無視をするのが難しいのだ。
「キッチン、お借りますね」
返事はない。この三日間ずっとキッチンを使用していたのだから、わざわざ返答する必要性もないと考えているのだろう。
軽く息をついて、トマトを紙袋から出す。杖を使わずにわざわざ蛇口のレバーを引いて水を出し、汚れを落とすために水に当てる。つやつやとした感触を感じながら、まだぼんやりとする意識を排水溝に流れこんでいく水に向けた。
そもそも、なぜ、こんな私がスネイプ先輩の家にいるのか。
事の始まりは、三日前の夜に遡る。
あの日の夜。ちょっと人には話しづらい理由で家を追い出された私は、行くあてもなかったのでダイアゴン横丁の酒場で、これからのことをうだうだと考えこんでいた。金はあるけれども、どこかの宿に泊まるつもりはない。かといって、野宿をするのには抵抗感がある。簡易テントでも使えば良いのだろうが、こんなことのためだけにテントを購入するのも、わざわざ持ち運ぶのも憚られた。
そうして漫然とうだうだ悩んでいたそのとき――酒場の窓越しに、道を歩くあの人の姿を見つけたのだ。
正直なところ、いくら顔見知りとはいえ、あの先輩が家に泊めてくれるとは思っていなかった。そりゃあ多少は、いや、かなり必死に頼みこんだけれども、それでも、割に合わないことは拒否するだろうと予想をつける程度には、彼が合理的な人だと知っていた。冷徹なわけではないし、残酷な趣味を持ちあわせているわけではないけれども、ちょっとした情だけで動くほど優しさにあふれた人物でもなかったはずなのだ。……もしかすると、私の知らないこの数年のうちに性格が変わったのかもしれないので、断定することはできないけれども。
とにもかくにも、想定よりかはすんなりと家に泊まることを許された私は、その日のうちに先輩のところに転がりこんで、好き勝手かつ自堕落な生活を過ごしはじめた。
居候として、家事の手伝いや食料の調達などの基本的なことはしなければならないけれども、それでも、宿生活やキャンピングライフに比べれば天国のようなものだ。どこかの国の人らしく、両手を合わせて、アリガタヤーと拝み倒したい心持ちにもなる。
必要な食材の準備を終えて、いよいよ朝食作りに取りかかる。とはいえ、大した内容でもない。すこし厚めにスライスしたトマトと卵をいい具合に焼き、こんがりとキツネ色になったトーストの上に乗せる。ベーコンは買っていなかったので、丸々とした茹でソーセージを二本添えて、ケチャップをさらりと掛ければ出来上がりだ。
我ながら上手くできたと思う。食欲をそそられる見た目だ。
ささやかな達成感を抱き、鼻歌交じりに、一昨日、物置から引きずり出してきた埃っぽいテーブルの上に皿を置く。私の前に座る先輩は、まだ新聞に目を通していた。先輩のカップの中身を確認すると、すっかり無くなっており底が見えていた。
ちょっとした親切心で、用意したティーポットから熱々の紅茶を注ぎ入れようとする。紅茶が出てくる前に、サッとカップが引かれてしまった。警戒心の強いニーズルのごとく、隙のない素早い動きだった。
「……毒なんて入れていませんよ」
「そういう問題ではない」
それなら、どういう問題なんですか。浮かんだ言葉は、吐き出されることなく胃の底に沈む。
私たちの間で交わされる言葉は少ない。あるのは特有の空気感。アイコンタクトすらないので、繋がりを感じられることは少なかった。私はよく喋る方だが、先輩はそうではない。そして、反応に乏しい人間に話しかけられ続けるほど私の心臓に毛は生えていない。諦めるのが早いとも言う。
その諦めの早さのツケがここに回ってきたんだよなぁと内心で呟きつつ、スクランブルエッグを口に運んだ。
……うーん、不味い。視覚情報との齟齬がありすぎて、混乱する。何かが足りないような、はたまた無駄なものが入れられすぎているような。かといって、具体的にどうすれば良かったのか検討もつかない。この三日間ずっと料理をしているくせに、なぜだか一向に腕は上がらなかった。
うんうんと唸りながら首を傾げている間に、先輩はいつのまにか新聞を読み終えていた。バサバサと畳まれていく記事の一覧から、見慣れた文字がチラリと覗く。
ホグワーツ。我らが母校。夏季休暇に入っているので、今ごろ生徒たちは思い思いに楽しく過ごしているのだろう。はたまた、宿題に追われて悲鳴を上げているのかもしれない。
「……そういえば先輩って、いまはホグワーツに勤めているんですよね?」
「さよう。それが何か?」
「いやぁ……スゴいですよね、いろいろと」
つい、と先輩は片眉を上げる。
これは続きを促すと同時に、ちょっとイラっとしているときの癖だ。この三日間で学んだ。
両手を挙げつつ、弁解する。機嫌を損ねるのは本意ではないのだ。
「べつに煽っているわけじゃないんですよ? ただ、先輩ってそういう教師よりも、研究者のほうが向いている気がして」
私の知る先輩は、合理的な性格で、黙々と何かに集中して取り組むのが得意な人だ。この人が熱を入れあげる対象は、魔法薬だとか闇の魔術だとかで、一般的な魔法使いたる私からしてみたら何が楽しいのかサッパリ分からないものばかり。何に使えるのかも分からないので、どうにかしていると言いたくなるときもある。
けれども、先輩の作ったレビコーパスが学校内で一大ブームを築いたことや、効率的かつ有益な情報をビッシリと細かい字で書きこまれた魔法薬学の教科書のことを思うと、先輩は研究者として何かを実験しつつ生み出すほうが合っているような気がするのだ。
とはいえ、私が知っている先輩の働く姿は、数年前のものだけだ。もしかすると、今は教師としてやっていくほうが向いているのかもしれない。
「それなのに、先輩はずっと教師をしていますよね。だから、すごいなぁと思うんです。教えるのって忍耐強さが求められますし、思うようにいかない方が多いような気がします。一人の面倒を見るのも大変だろうに、たった一人で七学年分の授業を担当しなくちゃならないなんて……。私なら、早々に投げてしまいますよ」
冗談交じりに肩をすくめたけれども、その言葉は本心だ。諦めがちな私には、どうしたって耐えられないだろう。
「君からそのような評価を得られるとは思わなかったな」
どうやら新聞を読み終わっても、席を立つつもりはないらしい。飲み物もないのに私の話に付き合うつもりなのか、と疑問視するよりも先に、杖を振って自分で紅茶を淹れ始めた。
先輩の言っていた問題って、まさか私の淹れる紅茶がゲロ不味いとか、そういう意味だったのだろうか。だったら先ほどの私のささやかな感傷はなんだったのだろう。
まるまると肥えたソーセージをフォークで突きつつ、私はわざとらしく嘆息した。
「評価もなにも、スネイプ先輩は一つのことに熱を入れて、満足するまで尽くし続けるのが昔から得意だったじゃないですか」
こんなもの、評価でもなんでもない、単なる事実を述べたにすぎなかった。私でなくたって、先輩を知る者ならば同じようなことを言うはずだ。
「――存外、私のことをよく見ているようだな」
「そうですよ。何年の付き合いだと思っているんですか」
噛りついたソーセージはさすがに美味しかった。スクランブルエッグも無理やり口に入れつつ、ふと脈絡もなく思い出すのは数年前のこと。私がまだ一介の人間らしく、社会的な活動に従事していたときのことだ。
当時、私と先輩は死喰い人だった。社会的な活動といえば社会的すぎたような気もするけれど、なにも私が望んで踏み込んだ世界ではなかったのだ。単に、実家があの思想に賛同していただけ。いくら成人していたとはいえ、彼らの娘である以上は、家の方針には沿わなければならない。名のある家の生まれならばよくある、ありふれた出来事だ。
だから私は、たいした思い入れも信念もなく、流れるままにあの闇に足を浸していた。もちろん不満や恐怖心がなかったわけではない。それでも、「これからは我々の時代が来るぞ」だなんて嬉しげに話している両親の顔を見てしまえば、諦めがつくのは早かった。べつに、親のことが嫌いなわけではないのだ。たまたま私の実家が純血貴族で、スリザリンに代々所属していて、闇の帝王の思想に賛同していただけ。怒鳴られることも、手を上げられることもなく、私は彼らによって大切に育てられてきた。それこそ、包丁の握り方はおろか、台所の立つことすら許さない程度には甘々に。だから、感謝すれこそ、嫌うことなどできるはずもなかった。
死喰い人としてやっていくなかで、先輩とは何度も顔を合わせた。向こうのほうが先にあの組織に所属していたので、私は後輩としてよく懐いた犬のように頻繁に後ろをついていっていた。しかし、一緒に仕事をする機会に関しては、私の家の立ち位置のせいでついぞ訪れることはなかった。
そもそも、貴族の家というのは、基本的には組織の資金源(パトロン)でしかない。腕の立つ魔法使いならば、家柄関係なく外で仕事をすることもあっただろうけれども、私は特に秀でたところのない、ごく一般的な温室育ちの魔女だった。そういう魔女に任せる外仕事など、ほぼないに等しい。事務員だとか秘書のように書類整理をやってみたり、パーティーに顔を出して気楽な笑みを浮かべるのが、せいぜい私に許された仕事だった。
あの組織にいたときの私は、いま思えば孤独だった。私個人の思想なんて誰も気にしないし、名前で呼ばれることもない。家名と顔と性別が、私を構成する記号だった。そんな生活のなかで時おり見かける先輩の、月のない夜を連想させる背中を追いかけるのは、なんとも言えない安心感を私にもたらしてくれた。
先輩は決して温かい言葉を掛ける人でも、優しい手つきで撫でてくれるような人でもない。ただ、いつも変わらない絹を紡ぐような滑らかな物言いと、身に包む服と同じ色をしたオニキスの瞳が、私にはなによりの安定剤だった。私にとっての安らぎは、太陽のような眩しい光ではなくて、月を沈ませる夜の匂いだったのだ。
……そういえば、あのときのスネイプ先輩は、あまり研究者らしい熱というものを感じさせられなかったような気がする。何かしらに集中しているような雰囲気はあったけれども、そこに楽しみや好奇心の色はなかったし、時おり、苦しげに顔を歪めているときもあった。
当時の私は、あの先輩といえども流石にここでの仕事はつらいのだろうな、だなんて呑気に考えていたものだが、いま思えば、あれは先輩らしくない姿だった。もう少し一緒にいられたらきっと疑問に思うこともあっただろうけれども、しばらくしないうちに闇の帝王が生き残った男の子によって倒されたため、機会は訪れず、真相は分からずじまいだ。
今なら、訊ねることができるだろうか。
気が滅入る不味さで手が止まりつつある食事の合間に、前に座る先輩を見つめる。先輩は私の視線を無視して、薬草についての研究誌を黙々と読んでいた。もう深夜だというのに、寝床に付く気配もない。この人もたいがい宵っ張りだ。
「夜更かしをしていたら体に良くないですよ」
「君に言われる筋合いはない」
バッサリと言われてしまった。ごもっともだ。
素直に頷きかけて、いやいやと慌てて首を振る。
「私のことなんてどうでもいいんですよ。ただ、先輩の健康が心配なんです」
「ほう」
「だって、あんまりにも不健康な生活をしているじゃないですか」
この三日間で私が見た先輩の姿は、おおよそ理想的な生活とは言えなかった。就寝時間の乱れはともかく、食事を摂る回数も不規則。シャワーを浴びているのかいないのかも曖昧で、一日中ソファーに座って何かしらを調べているときもある。これでは、いつ身体を壊してしまってもおかしくない。
「せめて、ご飯くらいはしっかり食べてくださいよ。私にとって先輩は、いちばん大切な人なんですから」
そのとき、空気が固まった気がした。
ああ、やってしまったな、と、それをどこか冷めた気持ちで俯瞰する。
「お前は、」先輩はぐっと眉をひそめた。「自分の立場を分かっているのか?」
「分かっていますよ、もちろん」
実家仕込みのたおやかで淑女らしい笑みを浮かべてみせると、先輩はさらに機嫌を損ねた様子で本を閉じ、席を立った。
「寝る前に、部屋の明かりは消しておくように」
先輩は、スイッと杖を振り、自分の飲んでいたカップとティーポットを浮かせて流しに置く。私がそれを目で追っているうちに、先輩は足音も立てずに滑らかに部屋を出て行った。
階段の床が軋む音と、扉の閉まる音が遠くから微かに響く。人の減った室内はいよいよ深夜らしい静寂に包まれた。カチカチ鳴る秒針の音にしばし耳を傾けたあと、私は、あ、と声を漏らした。
「毛布のお礼……」
せっかく私のことを気遣って掛けてくれたのに、礼を言いそびれてしまった。親切にされることなんてめったにないのに、どうしてあんな物言いをしてしまったのだろう。
胸の奥がズキズキと痛む。まるでナールを飲みこんでしまったかのようだ。俯くと、自分の作ったご飯の残りが視界に入った。出来上がったときはあんなに美味しそうに見えていたのに、雑に食べたせいで、味も相まって残飯のようにしか思えなかった。すっかり冷めきってしまったためにいよいよ食べれたものではなかったが、もやもやとした後悔の塊と共に無理やり胃の中に収めた。
その後、適当な書籍を読んで暇を明かしていると、昼間になってようやく眠気が訪れた。よくない傾向だなと冷静に分析する自分を感じつつ、素直に眠気に身を任せて眠りに落ちた。
* 目が醒めると、また夜だった。昨日よりかは遅くはないものの、夜は夜だ。日はすっかり落ちて月が満足げに空に浮かんでいる。時刻を確認するまでもなかった。
毛布はもちろん、掛けられていない。当然だ。ベッドの上で寝ている以上、昨日の親切心は必要ない。それなのに、どことなく物寂しさを感じてしまうのは、私が甘っちょろい家庭で育ったからだろう。
リビングに先輩の姿はなかった。嫌われただろうか。一瞬、不安になるが、それはないだろうなと首を振る。先輩はハッキリと物を言うたちなので、私に愛想を尽かしたならば、さっさと家から追い出すはずだ。
ゆっくりと顔を上げて、天井を眺める。ちょうど上には先輩の部屋がある。単なる勘にすぎないけれども、この家に先輩はいない気がした。
「…………」
杖を小さな鞄を片手に、家を出た。もとより、私の持ち物は最初からこれだけだった。財布と杖、そして実家の鍵。念のため借りていた先輩の家の鍵を閉めて、ふらふらと行くあてもなく歩き始める。
夜の街というものは、どうしてこんなにも不安な気持ちを煽るのだろう。私はとうの昔に成人を迎えた魔女で、おおよそのことは自分の力で解決できる。それなのに、人気のない住宅街を歩いていると、意味もなく後ろを振り返ったり、路地の間に目をやったりしてしまう。マグルばかりが住む街なのだからそこまで警戒する必要もないのに、何か物音がするたびに、無意識のうちに杖を強く握りしめてしまう。そうしてそれを自覚するごとに、ハッとしてその手を緩めた。噛みしめた唇から、血の匂いが滲み出る。
――私はもう、杖に頼りたくなんてないのに。
数日前、家を出るときのことを思い出しかけて――意図的に考えることをやめた。あそこから逃げ出した私に、何かを想う価値なんてない。ましてや、後悔する意味も。
気の赴くままに足を進めていると、そのうち、靴の踏みしめる対象が石畳から土草へと変わった。ふっと顔を上げると、あたりは一面の草原だった。淡い月光に照らされて、野草が鈍く輝いている。サワサワと風が吹き、葉の揺れる音が響いた。
驚いた。こんなに自然豊かな場所が、あの石の街の近くにあっただなんて。思わず溜息が漏れた。
月は雲によって見え隠れしている。上空は風が強いのか、目に見えて雲の移動しているのが分かった。きっと箒で飛んでみたら即座に後悔するはめになることだろう。
雲の動きをなんとなしに目で追っていると、ここからそう離れていない丘の上に、一本の大木を発見した。見覚えのある影がチラと映った気がして、心持ち早足で向かう。
「――やっぱり、あなたでしたね」
木の下に座り込んでいたのは、はたして先輩だった。専門書を片手にいつもの黒い服に身を包んだ先輩は、私のことを無感動な目で見遣った。色のない目で見られるのには慣れている。ずうずうしく隣に座りこんだけれども、先輩は何も言わなかった。
「こんなところにいたら、体調を崩してしまいますよ」
昨日と同じような忠告を、懲りずにまた口に出す。
鞄を身体の横に置いて、膝を抱えた。夏の夜は暑い。それなのに、どうしてか身を縮ませたくなった。
「…………」
また、夜空を見上げる。月の形は変わらない。周りに漂う星たちも、かつて学生だった頃に習った姿とそっくりそのままだ。ここは街の光から遠い。こんな曇り空じゃなかったら、さぞ綺麗な夜空だったろう。
「なんだか、懐かしいですね」
ふふ、と笑みが零れる。なんのことやら、という目を向けられた気がするが、構うことなくまた笑みを零した。
あれは私がまだ、ホグワーツに入学して数カ月もしない頃のことだった。当たり前のようにスリザリン寮に入って、みんなと同じように慣れない寮生活を送っていた私は、体力のなさから人付き合いに疲れて一人になりがちになっていた。ホグワーツの土地は広い。木陰といえるものだけでも、かなりの穴場がある。そんなことも知らなかった幼い私は、いつも同じ場所にふらふらと向かい、木の下で膝を抱えてぼんやりとしていた。泣いてしまうほどつらくはないけれども、笑っていられるほど前向きな気持ちではいられない。喧騒から離れたこの木の下は、そんな私の心を、すこしだけ落ち着かせてくれた。
そんなある日、私は先輩に――セブルス・スネイプに出会ったのだ。
スネイプ先輩も、人気のないところにある木陰を愛する生徒のうちの一人であった。そして幸か不幸か、彼のお気に入りの場所は私とまったく同じだった。それを何も知らない私がノコノコと足を運び、いつも彼よりも占拠してしまっていたらしい。向こうのほうがひとつ年上なのに、偉そうにすることもなく、先輩は静かに私の前に立っていた。俯いて膝を抱えていた私は、こちらを向く靴が視界に入り、驚いて顔を上げた。上げるや否や、私はハッと息を吸った。
――私を見つめる先輩の瞳は、穏やかな夜の匂いがした。
それを目にしたとき、なぜだか、たまらなく懐かしさを覚えた。私はきっと、ずっとこの目を待っていたのだと、このために今まで生きてきたのだと、根拠もなく確信した。
鼻の奥がツンと痛んで、ぽろりと涙が零れ落ちた。どうして泣いているのかも分からず、ただただ目を見開いて涙を流し続けた。
お気に入りの場所を下級生に何度も占拠された揚句、顔を見るなり泣かれるだなんて、当時の先輩には悪いことをしたなと思う。それでも、ぽろぽろと声もなく泣きだした私のことを叱ることもなく、ただそっとそこにいることを許してくれた先輩には、感謝してもしきれない。
「先輩は覚えていないかもしれませんが、あの時、私、すごく救われたんですよ」
今でも、どうしてあれほどまでに泣いてしまったのか不思議に思うときはある。あんまりにも派手に泣いたものだから、あれ以来、気恥ずかしくなってあの場所には近寄らなくなってしまった。
元来、諦めが早いのもあって、別段あの場所に執着していなかったのもある。そのうち他の穴場を見つけた私は、すっかりそのことを忘れたような顔をして過ごしていた。数年後に、死喰い人になって先輩とまた顔を合わせたとき、私はさも初対面であるかのように振舞って背中を追いかけた。
――本当は、何一つ忘れていなかった。あのオニキスの瞳も、胸に抱いた嬉しさも。ちらちらと光の射す木陰の下で、音もなく見つめあった、あの秋の日の風の匂いも。
「そうだな、覚えがない」
先輩は淡々と肯定した。そっけない答えもまた、先輩らしくて安心する。
覚えられていなくても傷つくことはなかった。あの組織に所属して顔を合わせたときから、薄々分かっていた。そんなことよりも、今ここで先輩と言葉を交わしていることの方がずっとずっと大切だ。あんなに気落ちしていたはずなのに、一緒に座っていたらすっかり気分がよくなった。満足感に胸を満たされて、腰を浮かせようとしたそのとき。「だが」と、先輩が口を開いた。
「君が思っているよりも、私は気にかけているつもりなのだがね」
「な、何ですか……?」
「家を出てきたのだろう。大方、婚姻関係の問題か」
息が止まる。心臓が嫌な跳ね方をした。
同時に、数日前の出来事が乱れた映像として脳内を流れる。
――知らない男性の顔写真。こちらに微笑みかける母。私の肩に乗せてきた父の手を振り払い、震える足で後退(あとず)さる。困惑から徐々に怒りの色へと変えていく彼らを前に、悲鳴混じりの声が喉から零れ落ちた。
「……好きでもない人と一緒になることを拒否するのは、そんなにおかしなものなんでしょうか」
抱えた膝は、思いのほか冷たかった。
ホグワーツで青春時代を過ごした私は、いくらスリザリン寮生における純潔貴族の割合が高いとはいえ、みんながみんな許嫁関係で結婚するわけではないことを知っている。誰かを好きになって、恋人関係になって、幸せそうな笑みを浮かべている同級生なんてたくさん見てきた。同じような家柄の子が、好きになった人と一緒に駆け落ちを計画する囁きも、許嫁を心から愛している子が頬を赤らめて送られてきた手紙を読み上げる声も、いつだって私の周りに存在していた。
きっと、普通の恋愛なんて、知らない方が幸せだったのだ。知らない誰かと結婚して、家のために子供を産むだけの人生。同じように育った母が幸せそうにしている姿を見ているから、もちろん、それだけではないと頭では分かっている。それでも、どうしても私には受け入れられなかったのだ。
「あのとき……家を出るとき、私は否定したんです」
血の気が失せた顔で、これから人生を共にしなくてはならない男性の写真を振り払い、私は逃げるために杖を手にした。――手にしてから、魔法を使うことに忌避感を覚えた。
だって、私はこの家で生まれた魔女なのだ。魔法を使えるのも、この杖を手にしているのも、私がこの家の血を継いでいるからこそ存在しうる現実なのだ。
魔女でいたくなかった。魔法が使えることこそが、あの家に生まれた逃れようのない呪いであり、証拠であるような気がした。あんなところに生まれなければ、きっと私はもう少しだけましな人生を送れていたような気がするのに。
だから、意地を張ってこの数日間は杖を振らずに生活した。そんなことをしたって何の意味もなさないのに、幼稚な癇癪を起こしてただひたすらに目を逸らし続けていた。
スリザリンらしくない思想だとは思う。純血思想を持ち、家を大切にする者たちが多いなかで、異端な存在であると思う。
でも、家や血よりも守りたいものを、私はずっと昔に見つけていたのだ。
「家から逃れることはできないものなのだと、私は思う」
先輩は感情の色を感じさせない口調で呟く。
「だが、逃れようと足掻くことは、恐らく悪でもないのだろう」
「……そうですね」
「私には、そもそも君がここにやってきた理由自体がさっぱり分からないのだがね」
皮肉げに口元を歪める先輩を横目に、「きっと分からないですよ」と答えながら、私は出会ったときのことを思い出していた。
あのとき、オニキスの瞳を目にしたときに抱いた懐かしさは、単なる鏡を覗いた感情だったのだ。彼の目は、私とよく似ていた。孤独で、寂しくて、この感情を理解してくれる相手を、迷子のような心持ちでいつも望んでいた。
先輩に対するこの気持ちは、身を焦がすような恋ではなく、和らぎを与える愛でもない。ただの、同族を見つけ出した仄暗い安心感だった。この四日間で私はそれを、痛切に理解した。
それでも、と私は今度こそ立ちあがる。それでも、この出会いだけはきっと、無駄なものではなかったのだ。
先輩の家で過ごした数日間が、ちらちらと揺れて脳裏をよぎる。
初めて挑戦する調理に、魔法を使わない洗濯。慣れない環境での生活は、なんとも穏やかなものだった。何度も失敗を繰り返す私に対する先輩の態度は、一見すると優しさの欠片もなかったけれども、ただ冷たいだけのものでもなかったのだ。打算も、同情もないその態度が、今までどれだけ私を救っていたのか、やっぱりこの人は分かっていないだろう。
家に飛び出る前に口にした、拒絶の言葉が頭に響く。
――貴方たちが言うような、劇的な人生なんて望んでいない。ただ、ありふれた幸せを感じて、好きなように生きてみたかっただけなのに。
立ちあがった私を見て、先輩も腰を上げた。向こうの背のほうが高いので、こうして立っているとだいぶ見降ろされてしまう。
「帰るのか」
「そうですね、帰ろうと思います」
雲が晴れて、月の光がいっそう強くなる。月光に照らされながら、先輩の目を見つめる。やっぱり、その瞳に宿るのは、ずっと昔から見慣れた色だった。
「最後に、私と握手をしてくれませんか?」
差し出されて握った手は、想像よりも温かかった。私はその温みを忘れたくないなと呟きながら、頬を緩ませた。
朝はいまだ遠い。家に帰れば、きっとあの日の続きが私を待っている。
それでも、この温もりさえ忘れなかったら、私はどこまでも歩いていけるような気がするのだ。
――今度は、私がこの人を救いたい。今なら、それを堂々と言える。救いなんて求めていない顔で、ずっと苦しそうにしている姿を、私はずっと見てきていた。
必ず幸せにさせたいだなんて、大それた夢は抱いていない。ただ、私が救われた分だけでも、この人に返したくてたまらない思いでいっぱいなのだ。
二年後は、いよいよ九十年代の終わりまで十年を切る。月明かりの向こうで、十年後の自分の姿がふと、おぼろげながらも見えたような気がして、私はふふ、と口の端から息を零した。
(了)
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