∴ チョコレートと篭の鳥
「
盲目のようじょとスネイプ」の続きというよりも、どちらかと言えば改訂版です。
数年前、某アンソロジーに寄稿した作品ですが、わりと荒かったので手直しをしました。
***
その少女の翡翠の瞳は、かぎりなく澄き通っていた。
この世の汚れたものを目にしたことがないそれは、たとえるならば透明感のある海のようであり、どこまでも純粋でありつづける人形の硝子玉の瞳のようでもあった。
実際のところ、彼女は盲目だったため、汚れたものどころか美しいものですら視界に入れたことがなかった。
どんなに素晴らしい衣装を見に纏おうとも、良し悪しの判断は手触りや重さでしか判別ができない。誰もが感嘆するほどにきらびやかな宝石でさえ、地面に落ちる汚らしい石くれとの触感に違いがなければ、彼女にとっては等しくただの鉱物でしかない。
それはひどく悲哀の感情を抱かせるものであったが、少女はどうにも不幸せそうではなかった。すくなくとも、スネイプの見るかぎりでは、彼女は何も不安のない良家の子女として大切に育てられた、幸福そうな子どもであった。
それゆえに、彼女がこのくすんで汚れきったスネイプの家に存在している光景には、どこか廃棄所の中に一輪の花が咲いているような感覚があった。
「わたし、先生のお家が好き。だって、病院みたいな不思議な匂いがするんですもの」
少女は明るい声で呟き、淡い笑みを浮かべる。こちらを見つめているつもりなのだろうが、その視線はスネイプからやや逸れた方向に向かっていた。
彼女の微笑んだ先には、乱雑に積まれた本たちが埃をかぶって沈黙していた。スネイプが参考文献として本棚から引き出してきたものだったが、忙しさにかまけて片付けることを忘れていた。
もともとは鮮やかな藍だった表紙でさえ、いまはくすんだ鈍色となって机上に放置されている。清めの呪文を使ったところで、元の姿に戻れるとはとうてい思われなかった。
そして、そのような本の群れに少女が笑顔を向けていることは、ひどく背徳的な情景であるように思われた。彼女の光が見えないことは安心すべきことではなく、むしろそれを良いことに恥部を晒してしまったかのような罪悪感があった。微笑む少女を目にしていると、少女の顔の向きを逸らさせたくなるような衝動にも襲われる。
しかしながら残念なことに、この家は来訪する者の存在を考えてはおらず、また家主が清潔感に対して無頓着であったために、どこに目を向けても汚らしかった。たとえスネイプが魔法や何らかの手段で少女の顔を動かそうとも、この罪悪感と衝動から逃れることはできないだろう。
スネイプにとって、この家はただの休息所でしかない。以前からたびたび清潔にするべきであるとは思っていたのだが、一年のうちで二ヶ月ほどしか滞在しない、しかも訪問者がまったく想定されない家を綺麗に保つだけの理由がなかったのだ。
それに対していまさら後悔するも、この状態から新築同様にするには無理があった。
せめて収納だけでもしようとスネイプは傍にある本を手に取った――が、本棚には空きがなかった。かつてこれらが収まっていた場所には、新たな書籍がふてぶてしく居座っていた。
スネイプは諦めて、その本を埃まみれのテーブルの上に置いた。待ち構えていたかのように埃がふわりと舞って、本を静かに包みこんだ。
「ねえ、お薬の匂いって、すてきだと思わない?」
「……君の感性は変わっているな」
「そうかしら。わたし、ちいさなころから病院の匂いは大好きよ」
少女は無表情なままに、すこし愉快そうな声色になる。身内から同じようなことを何度も指摘されているのだろう。一般の感覚からズレている己を楽しむような調子があった。
盲目である少女は、身振り手振りで会話をするということを知らないらしい。ほとんど表情は変わることはなく、口だけを動かして意志疎通を行っている。淡く微笑むことはあるが、それでも完全に歯が覗くまでには至っていなかった。
人形のように整った姿で、作り物めいた小さな唇から紡がれる「先生(professor)」は、ひどく生々しく、アンバランスなものがある。
瞳は焦点の合わない硝子玉で、表情もほとんど変わらない彼女が声を出すたびに、たしかに生きている人間だということをスネイプに思いださせた。
「先生は好きな匂い、ある?」
「……考えたこともない」
「あら、そうなの。好きな匂いって、それだけでドキドキするのよ。先生は、ご本の匂いが好きなのだと思っていたけれど」
スネイプは魅惑万能薬を制作した際の香りを思い起こしてみたが、心地よい匂いだったという記憶しかなかった。いつも調合のほうばかりを気にかけていたため、わざわざ個々の匂いに興味を抱いたことがないことに気づく。
古書の香りはたしかに苦手ではないが、好きかと問われればそれには首を傾げる。スネイプにとって、それはあまりにも日常的な香りであるため、好き嫌いという段階をとうの昔に過ぎていた。
「書籍の香りは、どちらかと言えば嫌いではないが」
「じゃあ、好きなのね?」
「いや、そうではない」
「嫌いじゃなければ、好きなのでしょう?」
「……嫌いではないことと、好きということは同一ではない」
「あら、そういうものなのかしら?」
少女はううんと小さく唸った。子どもには難しい話だったのかもしれない。スネイプは悩む少女の姿を横目に紅茶を淹れに行った。長い話になることは目に見えていたため、せめて飲み物と茶請けを出すべきだろう。
年間を通して個人的な人付き合いが皆無に近く、知人を自宅に上げた回数などこの十年の間ですら指の数でこと足りるかもしれないスネイプだったが、さすがに客人に対して生水を出すほど常識が欠落しているわけではない。まともな家庭で育っていないことはたしかだったが、人をもてなす最低限の知識は学生時になんとか身につけていた。
しかしながら、生まれ育った環境のせいか、はたまた生来のものなのか、スネイプは嗜好品の類いにこだわりを持ったためしがなかった。飲み物など、水分補給さえできればそれで事足りるとまで考えている。そのため、彼の淹れる紅茶はいつも可もなく不可もない出来合いであった。
魔法薬学の教授であるのだから、真剣にやればかなり味のよい紅茶が生まれることだろう。今までスネイプの紅茶を口にした者たちは異口同音にそう語ってきた。もうすこし紅茶作りに気を配ったらどうだろうかと、直接言われたことさえある。そうして、スネイプが先ほどの理由――飲み物など飲めたら何であろうと関係がない――を語ると、呆れ果てるか面くらったような反応を見せるのである。
少女はつい、と顔をわずかに上げた。まだ幼い小鳥の首を傾げるさまを連想させる動きだった。
「先生って不思議ね」
「…………」
「空気が動くかんじが全然しないのに、物を動かしているみたい」
スネイプはぴくりと杖の動きを止めた。少女が盲目であることをよいことに、堂々と浮遊魔法などを使っていたのだが、そうであるがゆえに、逆にそういった気配には敏感らしい。
動揺を悟られないように、スネイプはなるべく自然な動作で杖をポケットにしまい、ぎこちない手つきで紅茶をカップに注いだ。薄くもなく、濃くもない茜色がゆるゆると湯気を立ててカップのなかを満たしてゆく。
「甘いものは好きか?」
「もちろん」
スネイプは紅茶の入ったカップと、数個のチョコレート菓子が乗った皿を少女の前のテーブルに出した。そして、彼女の前にある椅子に腰かけた。
椅子はもう何年も使われていないような声を出して軋んだ。
スネイプ宅におおよそ似つかわしくないであろうこのチョコレート菓子は、二週間ほど前にダンブルドアから贈られた(気まぐれな嫌がらせなのではないかと睨んでいる)ものだった。甘いものを苦手とするスネイプは、保冷呪文を掛けたきり、食器と共に戸棚の奥にそれを眠らせていた。
ダンブルドアによると、これはマグル製の高級チョコレートらしい。たしかに、一粒ひとつぶの上に、鮮やかな模様が精巧に描かれている。子どもや女性ならばさぞかし喜ぶのだろうが、生憎、この家に現在いるのは、盲目の少女と三十代半ばの男性だけだった。
「チョコレートと紅茶だ。熱すぎることはないはずだろう」
「ええ、ありがとう」
皿の置く音であらかたの位置を把握したらしい。少女はなめらかな動作で一粒のチョコレートを摘み、口に入れた。彼女の無駄のない所作はやはり出自の良さを感じさせる。
少女はしばらく味わうように口を動かしていたと思うと、「おいしい」とひどく幸福そうな声を漏らした。
「いつも思うのだけれども、甘いものって一種の魔法みたい」
「魔法?」
「先生は魔法なんて信じてないでしょうけど、わたしは本当にあると思っているわ」
もう一粒、少女はチョコレートを手に取った。
「甘いっていうだけなのにね、悲しいときに食べても、ちょっぴり幸せになれるの。お父さまが言うには、甘味に含まれる糖分が、脳の、ええと、なんとかに作用して……、っていうのが本当のことみたいだけども、ぜったいにそれだけじゃないわ」
脳に保管されているあやふやな知識をごまかすように、最後は断言する口調で少女は語る。
学術的な知識は彼女にとってさほど大切なことではないのだろう。少女は手の熱で溶けかけているチョコレートを口に入れて、先ほどと同じように、柔らかく淡い笑みを浮かべた。
「ええ。こんなに幸せな気持ちにさせてくれるんだから、甘いものには魔法がかけられているに違いないのよ」
「……、ああ」
幸福な気持ちにさせる呪文ならばたしかに存在する。
しかし、このマグルであろう少女が主張したいのは、恐らくそのようなことではないのだろう。
己が魔法使いであるがゆえに中途半端な肯定しかできないスネイプは、逃げるように目を伏せ、手元にある紅茶を口にした。
*
「――ところで、ここに来るまでのことは記憶にあるか?」
しばらくしたところで、スネイプは居住まいを正し、少女の顔を見つめた。
開心術の行使を会話の最中に何度か試みたのだが、硝子玉である翡翠からはなにも読みとることができなかったのである。
「いいえ、わからないわ。気がついたらここにいたみたいなの」
少女は手探りでカップの持ち手を掴み、中身の紅をゆらゆらと揺らした。液体は縁の端まで迫っては、こぼれ落ちずにまたカップの奥に戻ることを繰り返している。不安定ながらも危なげないその動作は、きっと今までに幾度となく行ってきたものであろうことを感じさせられた。
スネイプはゆっくりとそれを眺めながら、つい半刻前の出来事を想起する。
遡ること数十分前。
少女は唐突にスネイプの家に現れた。スネイプが悪戦苦闘している研究論文からふと顔を上げると、あたかも初めからそこにいたかのような自然さで、彼女はスネイプのいる居間の中央に立っていた。
当然のように杖を抜き、警戒するスネイプの前で、少女は静かに瞼を開けた。その眼孔に収まっている鮮やかな翡翠を前に、スネイプは思わず息をのんだ。
当初、少女はスネイプのことを自室に訪れた専属の家庭教師だと勘違いしていた。すぐにそれは否定されて、少女こそがスネイプの家に現れたのだと告げられたのだが、少女はほとんど動揺しなかった。
むしろ、まるでこの状況が日常であるかのような動きで手をさ迷わせ、居間にあるソファーを見つけて、その上に座った。そうしてスネイプの家の匂いを気に入ったと言い、柔らかく微笑んだのである――。
「ここに現れる前は何をしていた?」
「わたしの部屋から出ようと立ちあがって……ただそれだけだわ。いきなり匂いが変わったから驚いていたら、先生に声を掛けられたの。――ねぇ、これってやっぱり妖精の誘拐なのかしら?」
「妖精の誘拐?」
「あら先生、聞いたことがないの? 妖精って、ときどき子どもを誘拐して、知らない場所に連れていってしまうんですって。だから、むやみにお外に出ちゃいけないの。お母さまがいつも話していらしたわ」
たしか、マグルの童話や伝承にそのような話があったかもしれない。ふいに、スネイプの脳裏を幼なじみの姿がよぎった。
どこかの木陰で、平易な言葉で書かれたその物語を、赤毛の少女がすらすらと読んでいる。まだ十にも満たない少年だったスネイプは、彼女の透き通った声を背景に、きらめくエメラルドの瞳をじっと見つめていた。
彼女の瞳は文字を追い、かすかに揺れている。木漏れ日がちらちらと揺れ動いていて、あたかも宝石のように輝く。
両者の視線は交わらず、虚構の物語だけが二人の間に漂っている。
彼女と過ごすひとときが、少年のスネイプにはたまらなく心地好かった。なにしろ、彼女が物語に集中している間は、好きなだけ、このエメラルドを眺めることができたのだから――。
「でもね、」
スネイプは少女の声によって、沈みかけていた思考の海から浮上した。
「妖精は気まぐれだから、もとの場所に戻してくれるときもあるの。だから、わたしもいつかは戻れるかもしれないわ」
「不確定な推論だな」
「仕方ないわ。だって、こんなことは初めてなんですもの」
少女はあっけらかんと言い放つ。諦めがいいのか気にしていないのか、どちらにせよ、スネイプにとっては頭の痛い話であった。
少女はこれをはじめての経験だと主張するが、それを言うのであれば、スネイプにとっても初体験だった。そもそも、闇の魔術に対する防衛術の職を希望する身として魔法生物の知識もそれなりに頭に入れていたが、妖精がこのようなことを起こすなど聞いたこともなかった。
たしかに、子どもを狙うような妖精自体はスコットランドに生息している。お伽話の世界に住む妖精のように優しさにあふれているわけでもない彼らは、伝承にもよく記されているように、往々にして迷惑な所業をしでかすのである。
よくある例としては、チェンジリングという、生まれたばかりの赤子を妖精の子供と取り替えたり、子どもを森の奥へと誘拐したりする事象がある。これだけでも十分に迷惑な行為であるが、他にも、ウサギの死骸を玄関口にばらまいたり、人の物を盗んだり、記憶の採取をしたりと、妖精はどこか子どもの悪戯の域を越えないが、厄介なことばかりを好んで行うのだ。
ゆえに魔法使いからしてみると、庭小人を鑑みればわかるように、妖精というものは観賞用の愛玩動物にもならない、害虫とさして変わらない面倒な存在であった。
そして、そのような妖精の被害に遭うのは、大概が無知なマグルであった。なにしろ妖精にとっては魔法族だろうが非魔法族であろうがお構いなしなのだ。自衛の手段はおろか、存在すら認知していないマグルの被害件数のほうが多いのは当然である。魔法省の魔法生物規制管理部は、そのたびに隠蔽工作を含む対応に追われているらしい。
――余談であるが、先週もデイリープロフェットに、『マグルの赤子がまた行方不明。妖精の巣の中で発見』という記事が掲載されていた。すべての妖精を管理下に置くことなど不可能でしかないが、新聞側はこれを「後手に回る魔法省は、国際魔法使い連盟機密保持法を自ら破る危険性がある」として厳しく糾弾していた。主張については分からないまでもなかったが、批判内容がいささか突飛であるように思われるのは、スネイプの勘違いではないのだろう。
……そんな厄介な存在である妖精であるが、十歳ほどの子どもを攫い、なおかつ他人の家に侵入させた事例については、未だかつて耳に入れたことがなかった。
「でもね、連れて来られた場所が、先生みたいな親切な人のいるお家でよかったわ」
スネイプは思わず紅茶入りのカップを落としかけた。長年、教員として子どもと関わってきたが、そのような肯定的な言葉を掛けられたことなど一度もなかった。
自らも優しいなどというものからほど遠い存在だと自覚しているだけに、スネイプは眉をひそめて応える。
「……別段、優しくはないだろう」
「そんなことないわ。いきなりやってきたわたしを、先生は追いださなかったでしょう? それどころか、こうやって紅茶とチョコレートまで出してくれたんですもの」
少女は愉快げに言う。小首を傾げたために、なめらかな黒髪がさらりと揺れる。
「実はね、誰かのお家に上がったのは初めなの。叔母さまのお家でも、お父さまは許してくださらないのよ。病院に行くとき以外は、お庭から先に出てはいけないんですって。でも、お姉さまは許されているのよ。不思議よね」
「…………」
箱入り娘というよりかは篭に囚われた鳥のようであった。しかし、少女はそれが異常なのだと薄々悟っている様子を見せながらも、明確に告白することはなかった。
「だから、わたし、嬉しくって、いまでもまだ心臓がどきどきしているの」
ちいさな手のひらを心臓の上に当てて、少女は穏やかな表情で目を閉じる。ふらふらと覚束ない目線が消えると、少女が盲目であることを忘れそうになる。
同時に、翡翠の瞳が視界に入らなくなったことで、はじめてスネイプはこの少女自身を正面から見たような心持ちがした。
「――……」
濡れ羽色の髪。透明感のある肌。桜色の唇に、すこしも傷のない滑らかな手。
そのどれもがスネイプの憧憬したかつての少女と重ならず、驚きの感情を抱いた。
スネイプの記憶にある少女は、赤毛で、健康的に焼けた肌。唇は赤く色づいており、手は花や虫に触れるために土が付いていることが多かった。
二人の少女の共通点はただひとつ。
瞳の色が翡翠――つまり、エメラルドグリーンであることだけだ。
それにも関わらず、スネイプはこの少女を無意識のうちに記憶にある赤毛の少女と重ねて見ていたらしい。
少女が記憶の少女らしさを失ったとき、ようやくスネイプはそれを自覚した。
「……君の、」
そうして唐突に、この目の前にいるちいさな少女の名を知りたいという欲求がスネイプのなかからじわりと湧きおこった。
「君の名前は、何というんだ」
質問を口に出してからスネイプは動揺した。他人に興味を持って自ら問いかけるなど、いったい何年ぶりに行っただろうか。
脈絡もなく出された問いに、少女はきょとんとしたふうに目を開けた。ただ、驚きの色はすぐに消え、ゆるやかな微笑みが顔に浮かぶ。
「あのね、わたしの名前は――、」
*
次にスネイプがまばたきしたとき、蝋燭の火がふっと消えるように少女の姿は失せていた。
はじめから来客など存在していなかったかのように、室内はしんと静まり返っている。ただ時計の秒針の動く音だけが、かすかに空気を震わせていた。
「…………」
白昼夢だったのだろうか。
スネイプは脱力する身体にまかせて、背もたれに寄りかかった。そして、気落ちしているというよりかは、名前を聞けなかったということを残念に思っている自分に気づいた。
たかだかマグルの少女の名前を知ったところで、スネイプに利益があるわけではない。だというのに、少女が小さな唇を動かしたとき、そこから発せられる音を心待ちしていたのである。
翡翠の目を持つ少女など、ホグワーツはおろかそこらじゅうに腐るほど存在している。適当にロンドンを歩き回れば、数分もしないうちに出会えるだろう。なにしろ欧州においてはさして珍しい色でもないのだ。
しかし、あの少女は――。スネイプは目を瞑って、深く嘆息した。あの少女だけは、スネイプにとって『特別』だった。
わずか数十分ほどしか共にいなかったが、いっそ手離しがたいまでに関心を抱いてしまった。もし、彼女が消えずにいたならば、なにかと理由をつけ、保護という名目で彼女の養育者になっていたかもしれない。そこまで考えたところで、その衝動が己の心にあることに驚くと同時に呆れ果てた。
――「先生」とこちらを呼ぶ、彼女の甘く幼い声が耳に残っている。
脱力感に苛まれながらも無理やりに身体を起こすと、やはり机の上には食器も紅茶入りのカップも存在していなかった。
夢にちがいないと言い聞かせてはいたが、実際に「お前が見たものは白昼夢であったのだ」と突きつけられると、引き攣るような、小さな痛みが胸を走った。
その奥にうっすらを垣間見える感情から目を逸らし、いくら印象的だったとしても、あれは夢だったのだと言い聞かせる。すると、仕上げなければならない論文の存在をふと思いだした。あれの期限はたしか一週間後だったはずだ。当然ではあるが、論文の締め切りは夢のようには消えてくれない。
スネイプは心中に渦巻く感情を振り払うように席を立ち、部屋の奥へと消えていった。
家主が退出し、居間はいよいよ静けさに包まれた。大量の書籍や家具類は、埃ひとつ揺るがすことなく、時計から漏れでる秒針の音と共にじっと硬直している。昼間だというのに窓は閉まりきり、時おり、遠くから響く車のクラクションを通す音だけが響いている。
その索漠とした空間のなかで、スネイプがなにもないと認識したテーブルの端には、溶けかけたチョコレートがひと欠けら――まるであの盲目の少女のように、ちょこんと控えめな態度で転がっていた。
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