∴ 幼い子
あのとき首を締めていた子供の頃の私はもういない。私は幸せになってしまった。
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子供時代の私と今の私を、私はいつも切り離して考えていた。
あのときの幼い私は苦しくて、悲しくて、希死念慮に苛まれながらひとりで蹲る子供だった。
頭のおかしい子。普通じゃない子。まともになれない子。
そう呼ばれて、蔑まれて生きていたかつての私は、今の私とは違う生き物だった。
幼稚園児の私は幸せだった。人とすこし変わっていても許されていた。母親はまだ笑っていた。父親がほとんど帰宅しなくても家庭は平和だった。
あのとき、車に轢かれたあのとき、死んでいた方が幸せだったのだと、すこし大人になった私は考えていた。
「死ね」と吐き捨てられて泣くことすらなくなった子供の私を、いまの私は哀れんでいた。
周りと協調することもできず、外でも家でも嫌われていた子供の私を、いまの私は心底憎んでいた。
だから私は、子供の私の首をいつも心の中で締めていた。
お前なんて死ねばいい。
幼いうちに死んでおけば、お前はもう苦しむことなんてないんだよ。
この先に待ち受ける苦しみも憎しみも、抱えることなく消えられるんだよ。
誰にとっても迷惑をかけることなく、いなくなることができるんだよ。
いまの私は幸せになってしまった。
あの頃、首を締めていた子供の私はどこかへと走り去った。
子供時代なんて朧げで、ノイズが走ったようにしか再生できない。
あのとき抱えたかつての憎悪も、苦悩も、悲嘆も、子供の私を許してしまった私はもう思い出せない。
あなたは生きていてもいいんだよと手を緩めたとき、子供の私はするりとどこかへ逃げたから。
この白い空間に残されたのは、ずっと首を締めたり殴っていた大人の私だけ。
幸せになってしまったいまの記憶と、忘れられない親への怒りだけが、座り込む私に寄り添っている。
私はどこへ行けばいいのだろう。
幸せになったはずなのに、途方にくれて立ち止まっている。
きっと親への憎しみがあるかぎり、私はどこへも行けやしないのだ。
そんな分かりきったことを考えながら、真白の空間のなかでひとり、ただただ呼吸を重ねている。
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