∴ 天樂パロ仁王夢2

――それじゃあ、サヨナラ。

そして、彼女は、俺の目の前で消えた。


***


雲一つない空が俺の頭上で広がっている。雨なんて、とうてい降るような雰囲気ではなかった。一年前と同じ日にちなのに、全く異なる天気がたしかにあの日ではないことを俺に告げていた。そして、そんな当たり前のことを悔しく思うのは、きっと俺があの日に戻りたいと強く願っているからだ。

――届けたかった言葉も、想いも、あの日に取り残されてしまった。

ぐしゃり。
ビニール袋が声を上げる。いつの間にか強く握ってしまっていたらしい。手の中にある花束が軽く潰れかけていた。慌てて力を緩めて、また花束を片手で持ち直す。ごめんな、と俺は意識せずに呟いた。風がそれに応えるようにさわり、と辺りを吹き抜けた。

昔からの付き合いであった彼女――いわゆる幼なじみというものだ――は、俺がまだ小学生だった頃に交通事故で亡くなった。のちに病院で聞いた話だったが、どうやら即死だったらしい。

苦痛もなく逝けたのはシアワセだったんだよ。
医者は呆然としている俺の頭を撫でて、そう語りかけた。それはきっと、悲しむ子供を慰めようとして、善意から言ってくれたのだろう。

――でも、一番シアワセなのは、多少痛くてもちゃんと生きていることじゃないのか。

白い部屋に立ち尽くしながら、幼い俺の頭の中でそんな言葉が湧き上がった。

だって、死ぬってことは、もう会えないということじゃないか。
第一、あっという間に死んじゃたら、自分が死んだことがわからないんじゃないの――?


気がつけば、だんだんとあの信号へと近づいていた。知らず知らずのうちに俯いてしまった顔を無理やりに上げる。懐かしい電柱が目に映る。その瞬間、後悔なのか、悲しみなのか、よくわからない感情が沸き上がり、脚が竦んだ。
花束をまた強く握る。振り切るように頭を振って、風景をよく見ようと視線を巡らせた。
そして、思考が止まった。

――彼女が……あの、幼なじみがいた。

あの日とまったく変わらない姿で、彼女はひとり立っていた。お気に入りの傘を時折、くるりと回して、幼い顔を上げながら、何かを待つように信号を見つめていた。
ぽつり、と頬に何かが当たる。それを雨だと認識する前に、俺は花束を放り出して走りだしていた。



パシャリと水溜まりを踏む。いつの間にか雨は本格的に降り出していた。道路際にある排水溝には小さな川ができていた。
彼女はまだ俺に気づいていないらしい。
俺は深呼吸を一つして、彼女に話しかけた。

「……お前さん、なにしとるんじゃ?」

傘が僅かに揺れる。彼女はこちらを振り返らずに、傘をくるりと回した。幼い頃、彼女がよくそれをしては母親に注意されていたのを思い出す。そのたびに彼女は小さく舌をぺろりと出して、俺に向かって悪戯っ子のように笑いかけていた。

「前に進むのを待ってるの」
「前?」

懐かしい、彼女の声が耳に届いた。不意のことで、俺は彼女の言葉を復唱した。
ざわりと風が吹く。木々が風に煽られて、あちこちで泣く。千切れた緑葉が地面に舞い散って踊った。綺麗な緑色はアスファルトの灰色によく栄える。そういえば、彼女は緑色が好きだった。

「……昔ね、ここで立ち止まったんだ」
「誰が?」
「とある男の子が」

俺は思わず息を飲んだ。
それが誰のことかなんて分かりきっている質問だ。彼女は俺の反応を知ってか知らずか、俯くように傘を動かした。

「―――私は早くその子を進ませなくちゃいけない。いつまでも立ち止まってたら駄目だから」
「……そーか」
「もっと、世界を知ってほしい。私とあなただけの居場所はもうないんだから。あのとき約束したんだから」
「…………」

彼女の言葉を聞いて、俺は黙り込んだ。辺りには雨音だけが静かに響いていた。
どうして、彼女はこんなにも優しいのだろう。本当なら、立ち止まっているのは彼女で、見送るべきなのは自分だというのに。滑稽なまでに立場は逆転していて、俺はこうして、彼女の後ろ姿を見ることしかできないのだ。
そう、あのとき、約束したはずだったのに。

向かいにある信号がちかちかと点滅する。赤と青が交互に光る。故障でもしたのかと俺は横目で見て思った。だからといって、これが壊れても大変なことなんてないのだが。
また深呼吸をひとつする。――そうだ、いつも大きな何かを決断するときは深呼吸をしていた。
パシャリと水溜まりを踏む。俺は彼女に近づいていった。ピチャ、パシャ、と水があちこちに押し出されて落ちる。遠くから車の音だけが近づいてくる。
彼女はもう一度、くるりと傘を回してこちらを振り返った。
それは、やはり、彼女だった。
びしょ濡れの俺は違い、彼女は可愛らしい制服を着て、ふんわりとした髪を揺らしていた。俺はと言えば、制服や髪がこの雨に濡れてべったりと身体に張り付き、俺に不快感を与えていた。
硬直している俺を見てなにを思ったのか、彼女は傘を僅かに横にずらして、立ちすくんでいる俺を傘に入れた。彼女は少し背伸びをしていたが、きっとその程度のことは苦ではないのだろう。
彼女の顔は穏やかだった。そして、いくらか成長していた。綺麗なその顔は、もしかしたらありえたかもしれない未来で、いつでも見れたかもしれないのだ。
俺は小さく彼女の名前を呟いた。

「×××……」

彼女は一瞬、ハッと驚いたような顔をした。もしかしたら、自分の名前は忘れてしまっていたのかもしれない。そして今、それを思い出したのだろうか。彼女は俺の顔をまじまじと見つめていた。だったら、とてもそれは嬉しいことだ。

いつの間にか、信号は青に変わっていた。昔から子供たちに歌われつづけた有名な曲が、横断歩道を渡れることを軽やかに告げている。
彼女は傘を俺の上から外して、横断歩道に身体を向けた。ああ、もう彼女は行ってしまうのか。当然のことなのに、悲しいような、悔しいような思いがまた体中を駆け巡る。――引き止めたい。
意識せずに伸ばそうとした手は、彼女が一歩踏み出たことにより虚しく空を切った。
信号が青を示す。青、すなわち進めということだ。

どこに?
シアワセに?

呆然としている俺を見て、彼女はにこりと笑って、言った。



彼女は、友達以上、家族と同じくらい……もしかしたらそれ以上に大切な存在だった。
今でもはっきりと思い出せる。目を瞑れば、あのときの光景がゆっくりと再生された。

とある雨の日だった。彼女は横断歩道をまさに今、こちら側に渡ろうとしていた。三歩ごとに傘をくるりと回す。それは彼女の癖だった。
俺は彼女を目にして駆け寄ろうとして――見てしまった。

トラックが信号を無視して走っていた。
横断歩道には彼女が歩いている。
運転手は寝ているようだった。
彼女は脚がすくんでいた。
トラックは、止まらない。
――彼女が、危ない。

あ、と声を漏らして、俺は瞬時に彼女に向かって走りだしていた。
手を伸ばす彼女。手を掴もうとする俺。どうにかして彼女を抱き寄せたくて、必死で手を伸ばした。車のブレーキ音が世界を裂く。彼女が車にぶつかる寸前に、俺は彼女の目を見ながら、彼女の名前を叫んだ。
彼女が視界から消えてゆく瞬間、最後に俺が聞いたのは、彼女の別れの言葉。



「それじゃあ、サヨナラ」

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