∴ 嘘と100日
エイプリルフールのFGOGOと、百か日忌の供養のために。
***
やさしい嘘の夢を見た。
彼は淡い橙色の夕日を背に笑っていた。にこにこと嬉しそうに、気の抜けた笑顔を浮かべて。おおい、立香ちゃん、と今にもこちらを呼びそうな雰囲気で。ただこちらに手を振って立っていた。
遠くに見える街は夕日に溶けて、蜃気楼のように揺れている。私の前にのっぺりと続く道は麦の穂のような金色に染まっていて、いまにもサクサクとした音が聞こえそうなほどに輝いていた。
夢のなかの私は彼に気づくことなく、まっすぐその横を走りぬけていった。ぐるぐる、ぐるぐると同じ風景を繰り返す。そのたびに、彼の左側を何度も何度も、一心に駆けぬけていった。
私が、ほんの少しでも歩みを曲げれば、彼と触れあえたはずなのに。道一本ぶん離れた彼との距離は決して縮まることはなく、彼も私を呼びとめることはなかった。
彼は、私の歩く道の上には立っていない。ほんの少し腕を伸ばせば届くような距離の、原っぱの上にいる。それなのに、どうしたって触れられない。あの距離はまさしく生と死のようだった。死はいつだって私のそばにあって、それでも紙一重に辿りつかなかった世界だ。彼はまさしくそれだった。あんなに近くにいたけれども、決して認知することの叶わない存在になっていた。
「ああ……」
目が醒めるなり、私は自分が泣いていることを認識した。
視界が滲んで歪み、ぐらぐらと揺れる。喉が焼けるような痛みが胸の奥からぐっとせり上がってくる。どうしようもなく目も鼻も熱くて、絶えることなく涙が流れ出てくる。幼い子供のように声を上げることもできなくて、目の上に乗せた腕で視界を暗くさせ、ただ喉を震わせた。
彼は――ロマンは笑顔で手を振っていた。
バイバイ、と別れを告げていた。
どうしようもなく近くて遠い距離からのそれは、私を納得させるのに十分だった。
私の部屋にあるカレンダーの、昨日の日付の欄には、98と小さく数字が書きこまれている。
今日は四月二日。
エイプリルフールの翌日。
――ロマニ・アーキマンが消えて99日。
彼が彼岸の存在となったのだということを、ようやく私は受け入れられたのだった。
*
四月三日。早朝。
カルデアの食堂のカレンダーには、小さな数字が書きこまれてるのがここ最近の光景だった。
誰が初めに気づいたかは定かではない。ただ、日に日に増えてゆく数字にあれ、と気づくものがひとり、ふたりと増え、いつのまにか皆の知るところとなった。
それを書き入れている人物が、人類最後のマスターとして戦った彼女であることを特定させるのには、それほど労を取らなかった。なにしろ彼女は隠れてやっているわけではなかったので、目撃者は多かったのである。
日を重ねるごとにひとつずつ増えてゆく数字に好奇心を抱いて、いつこのカウントは始まったのだろうかと去年のカレンダーまで遡った者はそれなりにいた。しかし、彼らはその始まりの日を知るや否や、その目を伏せて黙りこんでしまうのだった。
「おはようございます、先輩」
「うん、おはよう。マシュ」
今日も明るい声が食堂に入ってくる。かつて人類最後のマスターだった少女は、相棒であるマシュに挨拶を交わし、カレンダーへと歩み寄った。その手に握られているのは、どこにでもあるような油性ペンである。
彼女はじっとカレンダーの前へと立つ。本日である、四月三日の欄にはまだなにも書き入れられていない。前日の欄には99という数字が小じんまりと書きこまれていた。さらにその前の日には98。法則性を考える必要もなく、数字が一日ごとに増えながらずらりと記入されている。
油性ペンの細いほうのキャップが外された。彼女のすらりとした線の細い指は、しっかりとペンを握り、持ちあげられる。本日の日付の欄に、100という数字が書きこまれるだろうことを疑う余地はどこにもなかった。
「――――」
きゅうきゅうとペンが動き、カレンダーに記してゆく。そっと彼女の様子をうかがっていたマシュは、はっと息を飲んだ。
そこには簡易な十字架が描かれていた。子供でも容易に描けるような、まっすぐな線を二本、垂直にかけ合わせただけの絵だった。
それがどれほど心に衝撃を受けるものだったかなど、おそらくこの場で一年を過ごした者にしか分からないだろう。
「先輩……」
「もう、戻ってこないんだよね」
彼女は振り返ることなく、ぽつりと言葉を発した。
マシュはぐっと息を詰めた。肯定と否定。どちらの言葉を返すかなど、容易に選択できるものではなかった。
「昨日、夢を見たよ。きれいな嘘の夢だった。あのひとは手を振って、バイバイと私に告げていた」
淡々と小さく発せられる言葉は、それでも消えることはなかった。
「私、ずっと、信じられなかった」
彼女の腕は力なく、だらりと下ろされていた。それがかつては生き生きと振るわれていたことなど、幻のように思われる姿だった。
「だって、彼の死の証拠がどこにもない。
なんだか、ひょっこり戻ってきそうで。マシュのときみたいに、かき消えたって、知らない間に帰ってきそうな気がして」
その手に持つペンはキャップが締められており、わずかながらも震えることはない。
「『せめて、遺体かなにか、あればよかったのに』。
『骨を拾って、弔えたらよかったのに』。
信じられるものがないからって、そう願う自分自身が嫌で。でも、どうしたって中途半端に希望を持つのもつらくて」
床に、水が一滴落ちる。
「あんなに大変な旅をしていたときは、希望を持つことこそが励みで、強みだったのに。こんなにつらいなら、いっそ希望なんて無ければよかったのになんて、情けなく思ってしまっていて」
水滴がぱたぱたと、彼女の足元で増えてゆく。
「――でも、それでもやっぱり、私はあのひとに戻ってきてほしかった。どうしたって希望を捨てることができなかった。どんなに希望がなくったって、帰ってきてほしかった。さようならなんて、ずっとしたくなかった」
彼女の、小さな肩がひくりと動く。
かすれた声が震えながらも紡がれて、涙と共に落ちていった。
「あなたがいなくなったなんて、信じたくなかった。なかったんだよ……ロマン」
それでも、別れを告げられたあのとき。確かにこの少女は納得してしまったのだと、ずっと彼女と共に歩んできたマシュは悟ったのだった。
*
結局のところ、私にとって、彼とはどんな存在だったのだろう。
旅の癒しとなるナビゲーター。臨時的な司令官。カルデアにおいて初めてできた友人。
子供みたいな、素直な人。のほほんと気の抜けたような顔をして、とても真面目に生き抜いた人。
楽観的な言葉を吐きながら、悲観的に物事を捉えて先を見据えていた人。
――嘘をつくのがどうしようもなく下手くそだったのに、本当のことは最後になるまで私に黙って駆けぬけた人。
きっと、この関係性に名前を付けることなんてできない。
これを既存のものと同じようにラベリングして私のなかに収めるには、どうしたって複雑すぎた。
あんまりにも人理修復の旅が大変で、彼も私も、いろんな役割をこなさなくてはならなかったのだ。上司と部下。医者と患者。保護者と子供。そして、友人同士。平和になったら、きっとシンプルな役割に戻るはずだった。しかしそれも、いまでは叶わない夢だ。彼がいなくなってしまった以上、枠組みに収めるための交流ができない。
私が彼について整理する機会は、永遠に失われてしまったのだ。
でも、それでいいのだろう。
これから先どんなに多くの人と知り合おうとも、こんな複雑な存在は生まれない。
それこそが彼が唯一で、特別である証拠になる。
私にとって最初で最後の、かけがえのない人として抱えられる。
彼がそんなことを望んでいたのかどうか、私にはわからない。
自分自身にそこまでの価値を抱いていなかったような気はするけれど、確認するすべはない。
戻ってこないことを受け入れてしまったことを、諦めたのだと言う者もいるだろう。望みを持てと叱責する者もいるのだろう。私もそう思う。不確定な希望を抱いて、ずっと引きずって想うことこそが愛情なのだと、かたくなに信じていた。
でも、彼は私の背を押してくれた。前へ歩むように促してくれたのだ。
死は断絶ではないとあのとき語った彼が、まったくの希望を殺すように、自らの死と別れを教えてくれたのだ。
ほんとうに、ずるい人だ。
そして、残酷なまでにやさしい人だ。
別れがあるからこそ、次の出会いがある。ずっとずっとそれを繰り返して旅を続けてきた私が、それを分からないわけがないのだから。
――完璧な別れ。希望を断たれることが救いなのだと、あの人は分かっていた。だから、あのとき、私に手を振った。別れを告げてくれたのだ。
受け入れてしまった私には、それでも、ひとつの夢がある。
――いつか、私の命が尽きるときに、もし彼にまた出会えたら。
あなたは私のトクベツなんですよ、とちょっとふざけた声で、かつての日々のときに交わしたような調子で、彼に告げてみたい。
彼は――ロマンはきっと、すこし驚いたように目を開く。そうして、へにゃりと気の抜けた笑みを浮かべて、「ちょっと恥ずかしいけど、嬉しいなぁ」だなんて、幸せそうに言葉をこぼすに違いない。
そんな最期を夢見て、私は前に進む。
あの空耳が、いつか美しいものとなるのを願うように。
彼との別れを胸に抱いて、未来へと歩み続ける。
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