∴ 亜カネ嫉妬話

あの喫茶店の出会いからその後、亜門は何度も眼帯の喰種と顔を合わせることとなった。場所はそのときどきにより、飲食店であったり、道端であったりした。しかしそのどれも、お世辞にも「落ちついた場」でないことだけは確かであった。
さらに、毎回、あたかも図ったかのようにばったりと彼に出くわすのである。あの青年はどんなに混雑した場であっても必ずこちらの姿を見つけだし、「また会いましたね」などと、偶然なのか故意なのか判別に苦しむ台詞を口にして、周りから浮いた白い髪を揺らして微笑みかけてくるのだ。

当然ながら、これはわざとなのだろうかと訝しんだことはあるし、実際に、一度だけ詰問したこともある。だが、やはりと言うべきか、あの人間臭いふわふわとした笑みと巧みな話術でかわされてしまい、真意のほどはわからなかった。なんとも頭の回る喰種である。
しかし、少なくとも、こちらに悪意を持っているわけではないのだろう。すこし素性は怪しいものの、基本的には亜門に対して好意的である。こちらは本気で命を奪いにかかったことがあるというのに、あまりにものんきなものだ。加えて、この変わり者の喰種は、どうやら本心から人を食べる気がないらしい。あのとき、亜門の肩の肉を食らったのは、かなりの非常事態であったというわけだ。それを説明されずとも察してしまうほどには、亜門は彼と出会う回を重ねていたのである。

この青年は、注意深い性格なのだろう。毎回の邂逅で顔を合わせる時間はごくわずかなものだった。それでも言葉を交わすうちに、多少は相手の性格や思想が見えてくるものである。先の人間の捕食に関してもそうだが、この眼帯の青年はひどく穏やかな気質をしていた。それゆえ、回数を重ねるごとに亜門が警戒心を解いてゆけば、同じように向こうも気楽な姿勢を見せるようになってきていた。そうして穏やかな時をすごすうちに、最近では、ふとしたときにクインケを持つ手を離してしまうこともあった。
心のどこかでそれに危機感を覚えつつも、気を惹かれる青年との会話を楽しみにしている己の姿があるのも事実である。あの静かな目がふわりと幸せそうに細められ、落ちついたアルトの声が空気を震わせ鼓膜を打つと、どうしようもなく心が躍ってしまうのだ。

「おひさしぶりです」

その日、青年――亜門は「眼帯」と呼んでいた――はいつものように、ふらりと予告なく現れた。
カッターシャツを好む彼にしては珍しく、いつか対峙したときと同じような、ミントブルーのパーカーを上着にしている。
あの雨の夜の戦いが冗談であるかのように、いま、両者の間に流れる空気はおだやかなものであった。何も知らぬ他者が見たならば、彼らを「それなりに仲の良い二人」と評したことだろう。ひかえめに表現しても、「かぎりなく友人に近い知り合い以上」といったところか。すくなくとも、よもや命の奪い合いをした関係などとは思わないはずだ。

今回の邂逅は、横断歩道で信号の切り替わるのを待っているときだった。毎度のことながら、よくも人混みに紛れている己の姿を見つけられるものだと亜門は思う。身長はそれなりにあるほうであったが、東京都内はそれを埋れさせる程度には煩雑している。スーツに身を包んだ高身長の人間など腐るほどいるはずだ。特に、今は夕刻である。定時に上がって帰路に向かう会社員も多かった。それを涼しい顔で探し当てられるのも、おそらく彼が喰種だからなのだろう。

いまだ停止を示す赤色を視界に入れつつ、亜門は右側に立つ白髪の青年へと目を向けた。

「一か月ぶりだな」
「ええ。すこし、いろいろありまして」

含みのある言い方をするのも常のことであった。いまさらそれに苛立ちを覚えることもなく、亜門は素直に「そうか」と頷いた。
この青年がなにか目的を持って行動していることはわかっていた。だが、それに関して亜門があれこれ口出しする立場などなかった。青年がこちらに干渉しないかわりに、亜門も彼のことを見逃す。必要以上に踏みこまないことが、両者が平和的にこのひと時をすごすための暗黙の了解となっていた。

青というよりもエメラルドと形容すべきなのであろう色へと信号が切り替わる。人の波がざわりと揺れて、緩慢に動きだした。
亜門もその流れに従って前進すると、横にいた青年も当然のようにその後をついてきた。真横でないあたりが、青年のなかにいまだに残る警戒心の強さをよくあらわしている。この喰種捜査官と無関係であることを暗に示したいのだろう。

横断歩道を渡りきったところで、さて、これからどうするのかと亜門が問いかけようとしたそのとき、弱くもたしかな力で、クインケを持たないほうの袖が引かれた。

「あの、すいません」

内心やや構えつつ振りむいたそこには、ひとりの女性が立っていた。
第一印象は、“一般人らしい”というものだった。きわめて標準的な成人女性の外見に、この辺りのオフィス街では当然のように見受けられるスーツを身にまとっている。そして、おずおずといった様子でこちらを見るその姿は、争いごとを目の前にすれば涙を浮かべそうなまでに気弱げであった。間違っても己の部下と同じカテゴリに入れられるような人物ではない。部下に伝わったら確実に呆れられそうな考えがちらと亜門の脳裏をよぎった。

「ええっと……亜門さん、でしたよね?」
「それが、なにか」
 
亜門が警戒心をあらわにしていると、女性は困ったように眉を落とした。困っているのはこちらのほうである。亜門はクインケを持つ手を強めた。
しかし、その顔を見ているうちに、ふいに、彼女が以前、喰種に襲われていたところを助けだした者であることに気づいた。

「ああ、貴方はあのときの……」

ひとたび記憶の照合をしてしまえば、あとはするすると糸を引くように一連の出来事を反芻できる。

二か月ほど前のことだ。深夜に、会社帰りであったらしいこの女性は喰種の捕食対象として襲われた。たいがいの人間であったならばそこで人生に幕を下ろすのだが、彼女は運がよかった。たまたまその日、亜門はいつもよりも遅い時間帯に帰路についていた。真戸からの忠言――クインケを手放すな――を実行していたのも、両者にとって幸いだったのだろう。この女性は寸でのところで難を免れたが、それでも、記憶が違わなければ、左脚をやや抉られていたはずだった。

亜門は頷き、ストッキングに包まれている左脚へと目を向けた。

「身体のほうは大丈夫ですか」
「はい、すっかり治りました。ほんとうに、ありがとうございました」
「いえ。それが我々の仕事ですので」

喰種捜査官として仕事をしていると、感謝や激励の言葉をかけられることが時おりある。何度も経験しようとも、こうして命を救った者から面と向かって言われれば、喜ばしい気持ちが湧きあがるものだ。
助けだせた者たちから礼を言われるたびに、たしかにひとつの命を守れたことを実感する。あの孤児院の生活の日々で、無知であったがゆえに救えなかった兄弟らに対する贖罪をはたせているのだと、わずかな悔恨と共にしみじみ思う。そして、これからもこの歪んだ世界を正し、力なき人々を守らねばと強く誓うのであった。

「これからは、夜道には気をつけてください」

亜門がかすかに微笑むと、それを直視した女性はそわそわと視線をうろつかせた。その頬は上気し、やや赤く色づいている。
女性らしい薄紅色のリップグロスが塗られ、潤いのある唇がふるりと震えた。

「えっと、このあとお暇でしょうか? よろしかったら――」
「失礼します」

そこに、落ちついた声が割りこんで響いた。
どうやら声の主は、いままで無言を貫いていたはずの眼帯らしい。怪訝な顔をする女性と亜門のことなど気にすることなく、ふたりの間へとやってきた。
いつもの温和そうな様子はどこにいったのか、青年はどこかぴりりと肌を刺すような凍てついた空気を身にまとっている。しかし、それもすぐに霧散し、彼は女性に向かって――

「残念ですが、彼はこれから僕と用がありますので。誘いの言葉はまた今度にしてください」

いつか見た、したたかそうな笑みをふわりと浮かべ、言いきった。

「えっ、あの……」

青年の勢いのある行為に、女性はあっけにとられたようだ。言葉に詰まり、無意味にはくはくと口を開閉させている。

「それでは」

その隙をついたように、眼帯は会釈をすると、見た目にそぐわぬ力で亜門の腕をぐいぐいと引っ張って歩きだした。



「お、おいっ」

亜門は慌てて足を動かした。多少よろけたが、亜門よりも背の低い青年の歩く調子に合わせることはたやすかった。
いったい、彼はどうしたというのだろうか。普段の性格を知っているだけに、亜門の脳内は疑問と困惑で占められていた。なにがきっかけだったのかすら、いまいちよく分からない。おそらくは、先ほどの女性が絡んだことなのだろうが、それがどのような影響を青年に及ぼしたのか、てんで見当がつかなかった。

「おい」
「…………」

返事はない。腕を握る力が強くなった。

「おい……、――眼帯!」
「……なんですか」
「いったい、どうしたんだ」

いつもの呼称を口にしたところで、ようやく青年は足を止めて、手を離してくれた。あてもなく歩いていたのか、ふたりは人影のない路地へと入りこんでいた。周りにあるのは、排気ガスなどで薄汚れた閉塞感のある壁、意味を持たないスプレーアートの落書きの跡と、元が何だったかのすら判別のつかないゴミとチリの塊たちだけだった。よほどやましい行為をしたいと思わなければ、まず赴かない場所だ。亜門と会う際には必ず人気の多い場を選ぶ青年にとっては、これが初めての失態だろう。
しかし、周囲の環境など微塵も気に留めていないのか、青年は白髪を揺らし、ただうつむいているばかりだった。

「――……ですか」
「は?」
「だから、悪いですかって言っているんです。……あの人に嫉妬したんですよ」

ちいさく吐かれた言葉が、それなりに優秀であるはずの亜門の頭をショートする寸前まで追いつめた。

――いま、この青年はなんと言った?

しばらくの沈黙のあと、亜門は戸惑いと共に、おずおずと言葉と紡いだ。

「……お前が彼女に? 俺に、ではなく?」
「そうですよ」

青年はなかば、やけ気味になっているようであった。
おそらく、いまの状況は不本意であったのだろう。髪の間から見える青年の顔は苦しげで、水に沈められていまにも窒息しそうな人のもののようであった。はたまたそれは、親を見失った子どもが最後に浮かべるような表情のようでもあった。
彼に、こんな顔はさせたくないと、亜門は焦る傍らで思った。

「僕だって、ほんとうに、こんなことをするつもりはなかったんです。でも……、あの女性と貴方が楽しそうに会話しているのを見ていたら……つい」

たしかに、好いている者が他者と楽しげに言葉を交わしていれば、嫉妬心のひとつは浮かぶものだろう。亜門とて、子どもの頃は保護者に振り向いてほしくてわざと気の引く行為をしたことがある。その気持ちは分からないものではない。しかし、この喰種の青年が、まさかそれを亜門に抱くとは思いもよらなかった。それも、その根底にあるのは親愛ではなく――おそらくは、恋の類いの感情なのである。

「いまの自分が冷静ではないことはわかっています……」

それでも、どうしても、抑えきれなかったんです。
喰種の青年はぽつりぽつりと苦しげに言い、己の服の端を耐えるように握りしめた。

「……そうか」

亜門は目をすうと細めた。
しかし喰種の青年は、それを直視することはなかった。ひたすらに頭を垂れている彼は、あたかも審判を待つ罪人のごとくおもむきで亜門の言葉を待っていた。
ひとつ息を吐き、亜門はさきほどよりかは滑らかな調子で言葉を紡いだ。

「俺も……眼帯のことが嫌いなわけでは、ない」
「えっ」

青年は、はっと顔を上げた。その目はいくばくかの期待と不安の色をちらつかせている。
素直に感情を見せる彼に対し、真摯に応えねばならないと亜門は思う。

「……だが、いまのお前の期待に応えることはできない」
「……、……はい」

視線がさまよい、落ちる。青年の足が、一歩後ろへと向かった。

「でしたら――」
「――それでも、お前が良いと言うならば、」

亜門は彼を引きとめるために、力なく下がったその手の片方をすくい取った。びくり、と動揺からの震えが伝わってくる。
反射的にまた顔を上げた青年と視線が交わる。
戸惑いに揺れる隻眼が、じっと亜門の顔を映した。

「これからも、俺に会いにきてくれないか。もっと、お前のことを知りたいんだ」

そのとき、亜門の言葉を耳にした眼帯の青年の顔を、この先、忘れることはできないだろう。

彼の脳が、耳から伝わった音を言語として拾い、意味のあるものに解釈して染み渡らせ――眼帯で隠されていないほうの目が限界まで開いて、ぱちりと瞬きをし、そのあと、頬や耳がじわじわと赤く染まっていった。
雪のように真白な彼の髪には、赤がよく映える。変化していく彼の表情を前に、亜門はのんきにもそう思った。

そして、動揺の海に投げだされたのであろう青年は、最後にじわりと涙を目に浮かべると、口を開き――

「あ……ッ、亜門さんの、ばか!」

読書を長年の趣味とし、語彙が豊富であるはずの青年は、子どもを含めた誰もがまず候補にするであろう簡単な罵倒語をひとつ吐きすてるや否や、すばやく亜門の手を振り払い、その喰種自慢の脚力で駆けだした。――早い話が、逃げたのである。



「(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)」

金木は混乱にまかせて、ひたすらに走りつづけていた。こちらを呼ぶ亜門の声はとうの昔に振り切り、人混みの中を持ち前の反射神経ですり抜け、速度を落とさずにアスファルトを蹴る。無遠慮に通りぬける彼に対して、驚いたように止まる足も、苛立ちを含むかすかな舌打ちも、原因となった本人には届かない。
いまの彼は、人間としては異常な速さで走っていた。喰種捜査官などが目撃すれば、いつ喰種として狙われるか分からない状況である。平時ならば当然のように把握しているそのような考えすらも、混乱に飲まれた優秀な頭は浮かばせられなかったようだ。

「…………」

幸運にも、一般人に通報されることもなく、金木はホームの裏の外壁にまでたどり着くことができた。比較的、日の落ちつつある時間帯であったことも良い働きをしたのだろう。都内の人間は個性的なほうだが、それを差し引いても白髪に眼帯という金木の姿は悪目立ちしやすい。何事もなく帰宅できたのは、まったくもって幸運だったとしか言いようがなかった。

ようやく落ちついた足をふらつかせて、外壁に身体を預ける。そうして、一拍おいたあと、金木は力なく溜め息をついた。

「(ああ、逃げてしまった……。返事すらも、できなかった……)」

苦い後悔がじわりと襲う。あの状況下で逃げるべきでなかったと、己を叱責する声もする。どんな事情があったにせよ、返答もせずに立ち去るなど、非常識きわまりない行為であったのだから、当然だ。
それでも、と金木はひとりごちた。それでも、今回ばかりは仕方がないはずだ。

「だって、あんな……あんなのは、反則じゃないですか……」

顔を真っ赤に染めて、金木はずるずると壁に寄りかかったまま座りこんだ。
思い出すのは、あの堅物な捜査官の顔だ。
ふたりきりの狭い路地。息のかかるほど近距離で握りしめられた手。見透かすような黒曜の瞳が、じっとこちらを見つめている。そして、あの言葉。

『――もっと、お前のことを知りたい』

金木が落ちつこうと焦れば焦るほど、優しい調子で与えられたそれがぐるぐると脳内を巡って、リフレインする。
どうしても、冷静になることができない。心臓は飛びまわる小鳥のようにせわしなく動いているし、顔も火の元に立っているような熱さで火照ってしかたがない。

「ばかですよ……ほんとうに……」

あれでは、ほとんど告白をしたも同然ではないか。
何事もなかったかのようにホームに戻るには、とうぶん時間がかかりそうだ。金木はまたひとつ、悩ましげな溜め息をつくと、うずくまったまま目をつむった。

己はやらなければならないことがあり、帰宅を待つ仲間がいる以上は、いつまでも立ち止まってはいられない。そう決めたのは金木自身であった。
だが、せめて、この日が落ちきるまでは――その行為が許されないものだと知りつつも、どうしても、金木はこの幸福な気持ちに浸っていたかったのだ。

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