∴ 亜カネ馴れ初め話
その日、亜門にとっては珍しく、午後に半休が入っていた。申請したわけではなく、気がつけば予定として組みこまれていたのである。どうやら、あまりに休みを取らない亜門の体調を心配をした上司――おそらく篠原特等捜査官であろう――が、無理やり休みを入れてしまったらしい。普通の社会人などであったならば降って湧いた休みに喜ぶのであろうが、亜門はそうではなかった。仕事をすること以外にこれといった情熱を持たないがゆえに、唐突にできてしまった空白の時間に困惑した。せめて書類仕事だけでも、とCCG本部に向かったのだが、「休みも適度に入れなければ、本当に重要な場で十全の力を出せなくなるぞ」と生意気ながらも冷静かつ的確な意見を部下に言われてしまったため、ややの情けなさと納得を抱えて帰路につこうとした。
だが、やはりいつもの癖で、クインケの入ったアタッシュケースを片手に街中を歩き回ってしまう。なにしろ、ほぼ年中行っていることだ。無意識下のレベルにまで刷りこまれていてもなんらおかしくはない。
これでは休暇とは言いがたい。さて、一体どうしたものかと亜門は悩みーーたまたま視界に入った喫茶店が実に美味しそうなドーナツを販売していたため、そこですこし休むことを決めたのである。
ここまでが、つい先ほどの話だ。
「お隣、いいですか?」
落ちついた少年の声が響く。見れば、そこには変わった佇まいをした青年が立っていた。適度に切りそろえられた白髪に、無難な感覚で選ばれたのであろう庶民的な洋服。左目を覆う眼帯の存在を差し引いても、青年はどこか浮世離れした存在感を出していた。
昼時をちょうどすぎた辺りの店内は混雑しており、ざっと見まわす限りでは亜門の横以外の空席は存在しないようだった。おそらく、彼も仕方なしに声を掛けたのだろう。遠慮がちな姿勢と共に、わずかな緊張がこちらに伝わってくる。
「……ああ、かまわない」
亜門はややの沈黙のあと、しごくあっさりと頷いた。騒がしくされなければ、とくに気にかける必要はないだろう。
見た目とは異なり、繊細な気質らしい青年はほっとした様子で礼を言い、アイスコーヒーをテーブルに置いて隣に座った。もともと長居する予定だったのか、いそいそと鞄からカバーの掛けられた文庫本を取り出している。タイトルは分からなかったが、そこそこに分厚い書籍であった。カバーは布製であるから、日常的に外で読書をすることが習慣となっているのかもしれない。
喫茶店内は、都内の駅前という前提条件もあるが、夕方に近い時間帯ということもあり、友人と話し込む若者が多く見受けられた。ところどころでは、ラップトップや勉強道具を広げて黙々と集中している者もいたのだが、やはり全体的にやや騒がしいことは否めない。注文を受ける声、食器の重なる音、店内に流れる音楽も、平時ならばいい背景音となったのだが、この時ばかりは微力ながらにその要因のひとつとなっていた。
雑多な音が二人の間を流れては消えてゆく。
しばらくの沈黙のあと、亜門は低い声で呟いた。
「お前は、あのときの“眼帯”だな」
「……はい」
眼帯の青年は文字の羅列から目を離さずに同意した。
お互いに、声をかけて目を合わせたときに、素性に気づいた。だが、このごくごく平和な雰囲気の漂う喫茶店でクインケと赫子を出して戦闘を行うのはどちらにとっても不利益でしかないため、隠密に済ませることを優先させたのである。
亜門にとっては、討伐するためにクインケを狭い店内で出せば、反撃するであろう青年の赫子に巻き込まれて負傷者、ないしは最悪の場合、死者を出す危険性があったし、この眼帯の青年にとっては、このような人の多い場所でマスクも着けずに赫子を出すことは忌避したい行為であった。そもそも、彼は亜門に対して特別な恨みを持っているわけではないので、できることならば穏便に事を運びたかった。
ゆえに、二人は正体を察しつつも互いに見逃すことにした。いわゆる、一時停戦である。
しかし、青年が己を眼帯の喰種だと認めたあたりから、両者の間に漂う空気が氷のように冷ややかに硬直しはじめていた。いくら戦わないと決めていたとしても、喰種捜査官と喰種という立場上、緊張が走らないわけがない。ましてや、亜門にとってはラビットとの関係が濃厚であると推測されている喰種との対面である。見逃すと決めていても、いざ会話を始めてしまえば、戦闘の際にクインケを持つほうの手がかすかに震えた。
「わざわざこんな場所に来くとはな。獲物の物色か?」
「僕は、人殺しはしませんよ」
「その言葉通りだといいが」
拭えぬ不信感を抱きつつ冷ややかに吐き捨てたが、この喰種らしからぬ青年は困ったように眉を落としただけで何も言わなかった。単に、反論するのが面倒であっただけかもしれないが、それは亜門のあずかり知らぬところである。
青年はそのまま読書を続けると思いきや、どうやら亜門との会話を優先させることにしたらしい。
相変わらず本のほうに目を向けているが、文字の上を流れていたはずの視線が止まっていた。
「あなたこそ、仕事はいいんですか? それともまさか、これが仕事なんですか?」
「休みだ。だが、喰種がいるならば休みなど関係なく狩る」
「そりゃあ、そうですよね」
暗に、いつでも討伐できることを仄めかしたのだが、青年はただ亜門の言葉に納得したように、銀に近い白髪を揺らして頷くだけだった。
「喰種なんて、どこにでも潜んでいますからね。人間と同じモノを食べなくても、こうやって、普通の飲食店に紛れこむこともあるんですから」
訳知り顔で話すのは、まさに今、本人がそれを実行しているからだろう。
そうして、白い喰種はようやく本から視線をずらし、皿の上にあるドーナツを見た。ありふれた、粉砂糖の掛けられた小金色のドーナツである。感慨深そうに、眼帯に隠されていない右目が細くなる。
「甘いものが好きなんですね」
「ああ。よく食べるほうだろうな」
「ちょっと意外です」
そこではじめて青年は亜門の顔を見つめた。
灰がかった黒曜の瞳がちらりと輝いて反射する。
「ここにはよく来られるんですか?」
「……それを訊いて何になる」
「べつに、襲う予定はありませんよ」
「それなら、お前が知ったところで益にはならないだろう」
「そんなことはないですよ」
喰種の青年は静かに微笑んだ。
「あなたに興味がありますから。ああ、もちろん、再びここに来る予定はありませんよ」
当然だ。喰種が一度でも現れた場所には喰種対策局の捜査官が積極的に配置されるのだから。よほど愚鈍でないかぎり、再度ここに訪れることはないだろう。そして、わずかに言葉を交わしただけでも聡明そうだとわかるこの青年がその失態を犯すなど、よほどのことがなければ起こりえないはずだ。
「……俺も、お前には興味がある」
亜門がぽつりと吐いた言葉を、喰種の優秀な耳はきちんと拾いあげたらしい。青年の片方しか見えぬ目は、驚きに満ちて見開かれていた。
それを前にしつつ、亜門は次の言葉を紡ぐ。
「だから、おとなしく捕まってくれると助かるな」
「それは遠慮させていただきます」
青年は愉快げにくすりと笑った。さきほどの驚きはもう忘れたらしい。なぜだか亜門もほっと息をつきたくなり、手元にあった紅茶を口に含んだ。そうして、いつもの癖で、ちらりと腕にある時計を確認したところで――ふと、亜門はこの状況を本部に知らせるべきだろうかという考えが脳裏をよぎった。レートはついていないが、彼もまた、れっきとした喰種である。このまま会話をしている隙に、連絡を入れるべきなのだろうか。
すると、その考えを悟ったかのように、喰種の青年は席を立った。新雪のようにきらめく髪がさらりと揺れる。内気そうでありながらも、どこかしたたかそうな雰囲気を持つこの青年は、本当に頭がよく回るらしい。
わかりきった問いを、亜門はその小柄な体躯にかける。
「もう帰るのか?」
「はい。あなたに言うまでもありませんが、長居は危険ですし」
去り際に、こちらを見る彼の右目は、ひどく優しげな空気を湛えていた。
「今日はここで失礼します。――次は、落ちついた場であなたと話し合いたいものです」
「それまで、どうかお元気で」と揶揄の響きを感じさせない言葉を最後に紡ぐと、青年は文庫本を鞄にしまい、あっという間に姿を消した。
空席がひとつ生まれた程度では、店内の騒がしさは薄れない。いよいよ夜を迎える都内の駅前の喫茶店は、むしろ、これからさらに騒がしくなってゆくのだろう。よもや先ほどまでここに喰種がいたことなど、ここにいる多くの人々は露にも思っていないはずだ。
亜門は無言でドーナツを一口かじり、飲みこんだ。ふたたび空いた彼の横に残されたのは、たしかに今までここに誰かがいたことを示す、水滴のついたアイスコーヒーだけだった。
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