∴ 彼女と三年後
「三年後に、私は死ぬんだ」
「え?」
彼女は笑顔だった。あそこのケーキ屋は美味しいよとでも言うように、彼女はさらりと自分の死を話題にした。
「そう思うようにしたら、なんだか気が楽になったの」
僕らのいる部屋はいたって静かだった。秒針の音すらしない。凪いだ海のようだった。
「どうしてそう考えようと思ったの?」
「ちょっと説明は長くなるけど……」
「べつにいいよ。気にしないから」
僕の愛想笑いなんて、彼女には何の足しにもならない。だというのに、僕はいつもこういうときに愛想笑いをしてしまう。
彼女はふいと視線を落とした。しかし口元は笑っていた。
「それはね、この先、何十年と続くかもしれない不確定な未来を想ったとき、とても苦しくなったから。あと四十年近くも自分の人生が続くことを仮定したとき、私は果てしなく絶望したの。
大学を出て、誰かと付き合って、結婚をして、子供を産んで、歳を取って、死ぬ。それまでの間、ずっと対人関係で悩んで苦しまなくちゃならないなんて、私にとってはただの地獄よ。人間不信で、自分を愛せない私は、死ぬまで自らを罰しつづける未来しかない。誰も信頼できず、つねに人を疑い、同時に愛したいと願い、自分のことを無価値な人間だと罵ることしかできない私には、まともな未来なんてあるわけない。どうしたって絶望しかない。
そう考えたら、自分が確実に三年後に命を絶つと決めていたほうが楽だって気づいたの」
三年後プランだったら、計画も建てやすいでしょ? 彼女は事もなげにそう付け加えた。
「……でも、親を悲しませないかい?」
「これを提案してくれたのは母親よ」
「…………」
自分の容姿や性格が嫌いだ。このまま何十年も苦しみながら生きなくてはいけないのだろうか。彼女がそうやって母に愚痴をこぼしたら、三年後に死ぬことを決めればいいと提案されたらしい。
彼女はとても幸せそうだった。
「三年しか生きられないなら、なんでも好きなことができる。大学で勉強だけに専念できるし、趣味も際限なく極められる。恋愛や、人付き合いの問題なんて簡単に切り捨てられる。――それに、自分をずっと嫌いつづけることもなくなるんだから」
自分を愛せない彼女にとって、長い人生というものは地獄に等しかった。
彼女から自己肯定感を奪い、人生を絶望となるようにした彼女の母は、最後に命を絶つことを勧めた。
母親によって死が幸福になるように育てられた娘は、当然のように、喜んで死を選ぶ。「産まなきゃよかった」と存在自体を否定されつづけた彼女にとって、死は望むべきものだった。
母親から死ぬことを許されてしまえば、気がねする必要など、どこにもないのである。
「……僕は、君が死んだら悲しいよ」
「ありがとう。口先だけでも嬉しい」
でも、私はあなたを心から信用したことはないよ。
そもそも、友人を含めて、人を信用したことがないんだから。
冷たく言いきった彼女は、やはり、同時にそんな自分を憎んでいるように見えた。
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