∴ ありふれた話
「……私さえ生まれなければ」
「どうしてそんなことを言うの? あなたにだって大切な人はいるでしょう?」
彼女はカタンとコーヒーカップを卓上に置く。同時に、そこから立ち上る湯気が急きながら揺れた。
「もちろん。いるよ」
私は頷く。
「じゃあ、どうして?」
「大切だからこそ、迷惑をかけたくないの。あの人は、私がいるから様々なものを諦めているのだと言った。あの人は、私が普通じゃなかったから苦労をしたと言った。あの人は、私のせいで病気になったのだと言った。あの人は、夫を憎み、息子を嫌い、――私は母を恐れると同時に、やっぱり、どうしても好きだった」
「…………」
「好きだから。私をいつか捨てるかもしれないから。私はもう苦しくてたまらないから。私がいなければもっと平和だったもしれない過去と未来のために、私は結局、消えなければならないの」
目の前の彼女は怪訝そうな顔をする。
もちろん人の気持ちなど、人が孤独な生き物であるかぎり分かりはしないのだ。
「――悲しいなんていう感情なんて、なくなってしまえばいいのにね」
ぽつりと呟くと共に、横から現れたウエイターが「ご注文の紅茶です」と机の上に濁った紅を追加した。
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