∴ 仁王夢のような
最初は好奇心だったのかもしれない。でも、今にも消えてしまいそうな、危うい空気を抱いている彼女を放ってはおけなかったのだ。
「私の夢はね、大多数の人間と混じって、普通の存在になることなんだよ」
そう言って、彼女は儚く笑った。その言葉が本心だったかどうかは、未だに俺にはわからない。
あの時の俺は返答に詰まり、無言のまま目を伏せた。ひび割れたアスファルトが、キラリ、と太陽の反射を受けて光る。幾分古くなったローファーが目に映る。彼女の足元に生えた名も知らない花が、風に吹かれて、小さく揺れる。
その光景は、いつまでも、いつまでも、俺の脳内にこびりついていて、決して消えはしない。暑い夏の空気が、内側から俺を静かに溶かしていく。蝉の鳴き声すら、ただの空気として霧散する。俺のシャツは異常な湿度で嫌に湿っていた。日本の、湿潤気候特有のそれはとても不快なもので、時折吹く生温い風はさらにそれを助長させていた。
暑い、と一言口に出せば、彼女はまた、儚げに笑った。
***
―――みんなとは違う「何か」の存在になりたい。
いつの間にか、そんな考えを俺は抱いていた。
ただただ平凡で、退屈な日常に飽きていたのかもしれない。中高大とエスカレーター式の学校で送る4年目の新学期は、恐らくとてもつまらないものだったのだろう。たぶん、さして変わらない同級生たちの顔を見た瞬間に、俺はそう思ったのだ。
高校一年生になって、校舎は変わった。でも、同じ敷地に、顔見知りの人間たち。わかりきったカリキュラムや、繰り返す学校行事。何もかもが、あの入学したてだった、期待と不安を混じらせて門を潜ったあの頃とは掛け離れていた。
当たり前、と言えば当たり前か。
隣の席に座る、元チームメイト。そして、またチームメイトになった友人に視線を向けた。
人間は繰り返す生き物だ。同じことを何回も、自転車のように何度も同じ回転をして前へ進む。だからこそ経験があって、飽きるという言葉があって、新しい何かを求めるのだ。
「のう柳生……チェーンを外してみたいと思わんか?」
自転車自体を壊してみるのは、面白い事だと思わないか?
適当な口調で友人に話を振れば、悪戯はほどほどにしておきなさいね、と少しばかりズレた言葉が返ってきた。
友人らしいその回答に、思わず笑みが出てしまう。
***
「同じ日なんてないし、人間は繰り返す生き物なんかじゃないんだよ」
いつだったか、この考えを彼女に言ったことがあった。彼女はさも当然であるかのように、俺に堂々と返答をした。
どこかのカフェだったのか、自宅だったのか。場所はよく覚えていない。彼女はお気に入りの紅茶を手に持ち、両手で包んでいた。湯気が彼女の頬を撫でて、緩やかに軌道を変える。紅茶と共に置かれたケーキは、形一つ崩さずに、綺麗なまま彼女と俺の前に鎮座していた。
お互い、いつもケーキを注文するくせに、手をつけたことは一度もないのだ。
「そりゃまた……変わった考えじゃのう」
「だって仁王くん、そうでしょう? 同じメニューの朝食を食べたとしても、それは同じ生物ではないんだよ? 天気も時間も昨日とはまったく違うし、分子レベルで空気も違う。なのに、どうして仁王くんは繰り返すと言うの?」
「……そんなん、知っとるよ」
繰り返すとか、繰り返さないとか、そんな言葉が欲しかったわけじゃない。ただ彼女と話す話題が欲しくて、適当に言ってみたかっただけ。幼い子供のように、自分を構ってほしいだけなのだ。
―――なんて、言えるわけがない。
「―――でも、仁王くん」
「ん?」
「私は繰り返すこともできなければ、繰り返さないこともできないんだよ」
彼女はテーブルの上に置いてあるノートを指先で叩いた。隣に転がったシャーペンがその振動で僅かに動く。
「仁王くんは意地悪だよね。こうやって不変な私を追い詰めて、何が楽しいのかな?」
そんな仁王くんが嫌いだよ。
言動とは裏腹に、彼女は嬉しそうに笑った。
俺は黙って、彼女の綺麗な指先をじっと見つめていた。今日もまた、このノートに俺の名前が書かれるのだろう。この鮮やかなオレンジ色のシャーペンが、彼女の手の平に包まれるのだ。そこから生み出されるものがなんであれ、彼女に触れられるそれが、ただ純粋に俺は羨ましかった。
俺がこの思いを告げれば、彼女はまた儚げに笑うのだろうか。
毎日死んでゆく彼女は、きっと明日も死んでゆく。
繰り返せない彼女の、唯一の輪がそこにはあった。
―――――
経験値、再認というものが欠場した女の子と、日常に退屈していた仁王の話。
再認ができないから毎日が初体験の女の子。なぜなら目で見えるものは文字としてでしか認識できず、映像を覚えることができないから。仕方ないからノートに、会った人の情報や日々の記録を書き連ねている。
または記憶が一日しか持たないとか。でもそれだとくっつけないから、再認でいいのです。
死んでゆくのは人間の普通。
仁王が欲したのは人間の異常。
変わらない日常の中で、本当に変わらない彼女の存在は、ある意味変わっているものだった。
記録としてしか人間を認知できないから、例え柳生が仁王に変装したとしても彼女は気づかないはず。
未来に生きれない女の子の話とも言えますよね。
ちなみに元ネタはらっきょーです。玄霧皐月先生大好きです。
……夢じゃないぞこれ。
長編として書いてみたいお話。
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