「そういえば、幸村くんって知ってる?」
「え?」
「仁王くんと同じ部活って聞いたから……。もしかしたら面識あるかなって思って」

窓越しに流れる人々を見ていたら、つい言葉を聞き逃しそうになった。正面に視線を戻すと、彼女はおずおずといった雰囲気でこちらを見ていた。
彼女がなにか恐ろしいものを相手にしているように感じさせるのは、俺の見た目が悪いのか、不意に出てしまったぶっきらぼうな声が悪いのか。
きっと、そのどちらも原因なのだろう。俺はそう自己完結させて、懲りずにまた低い声を出した。

「そうじゃのー。たしかにアイツは中学んときに世話になったのぅ」
「世話? 知り合いなの?」
「……幸村から聞いとらんのか?」
「なにを?」

お互いに疑問符を飛ばしあう。どうやら俺たちの間には情報錯誤があるようだ。
しばらく見つめ合っていたら、彼女のほうがこの問題は意味がないと捉えたのか、とにかく、と話しの続きを始めた。

「その幸村くんが言ってたんだけど、『才能のある者は、一度それに近づくと、二度とそこから逃れられない』んだってね」
「ほぅ、えらい言葉じゃな」
「幸村くんってすごくテニスが強いみたいだからかな。視点が私とは違うのかもね」

嬉しそうに彼女は笑顔を浮かべている。それは、幸村と俺が単に部活が共通しているという繋がりどころではない、学校も、学年も同じ仲間だったということをまったく知らない顔だった。

惰性で注文したアイスコーヒーを口に含む。とくに喉が渇いてないからか、アイスコーヒーは苦い味だけを残して嚥下されていった。

「才能、な……」

神の子と呼ばれていた同級生の顔を思いだす。
全勝無敗。容赦なく、優しさという言葉を盾に、テニスを続ける価値のない者を完膚なきまでに叩き落としてきた仲間。きっと幸村の言葉は、いままで摘んできた才能なき人間たちと、自分自身に向けて発した言葉なのだろう。幸村が自分の才能の有無について考えていたのは驚きだが、それも越前リョーマという少年との対戦や、病に臥していたことを考えれば当然の帰結なのかもしれない。

『テニスを取ったら、俺にはなにも残らない』

幸村が再びテニスをするのは不可能だと言われていたとき、あの天才はそうして自分を追いつめた。二度とそこから逃れられなくなってしまったのは、自分がそうなるように仕向けたからか、宿命だったからか。無心に、機械のようにボールを打ち返し、ただコートを走り回る姿はそのどちらにも見えた。

アイスコーヒーの中に浮かぶ氷を突く。行儀がよくないとは自覚しているが、カラカラと響く音はなかなか心地好かった。

彼女の言葉を何気なしに反芻する。
視点が違うというのは、きっと、その生き様が違うからだ。
一般の人間が普通ではないと考える行動を、才能のある者は普通のことだと捉えている。俺自身が、テニスや勉強をなかなかにできていた人間だったからわかる。普通に才能があった俺が、才能の有無を真剣に意識したのはほんの数回。自分より圧倒的に強い者に会ったときだけだった。

ある人間がいたとして、そいつが普通にできていることが一般基準ではすごいことだとしても、本人にその自覚がなければ、才能なんてものを意識しないのが常なのだ。

俺の場合ならばテニス。基本的なラリーはあっという間に上達させて、努力らしい努力をせずに、ある程度のところまで上りつめてしまった俺は、いくら才能があると言われていても、それに頷くことはできなかった。
だって、それは俺にとっての当然だったから。羨望の眼差しをいくら受けようとも、それしか知らない俺はどこまでも『普通』の気でいた。それが覆ったのはあのとき。そして、心の底から感じたのは――と、そこまで考えて頭を振った。
とにかく、幸村の言葉は自身の経験からくるものなのだろう。俺があれこれ考えるのは無意味というものだ。

「で、なんで幸村を知っとるんじゃ」
「病院の待合室で出会ったんだよ。名前とちょっとした話しかできなかったけどね。物腰が柔らかいように見えて、男前な人だったよ」
「……ほー、ええ奴じゃったんじゃな」

自分の口から出る言葉が、まるで彼女を問い詰める彼氏のような内容だと気づく。
本当にそうだったらどれだけいいか。俺は自嘲から浮かぶ笑みを隠すために、俯いてストローをくわえた。

「仁王くんのほうが、ずっといい人だよ」
「なっ、」
「なんてね。冗談」

慌てて顔を上げると、目の前の彼女は無邪気に笑っていた。
カフェに誘って、こうして向かい合う形にしたのは俺だというのに、どんどん自分だけが追い詰められているような気がする。――いや、実際にそうなのだろう。

さっきの質問もそうだ。俺にとって大切なものなんて、彼女にきまっているくせに。彼女があんなことを言うから、臆病な俺ははぐらかして逃げて、適当なことしか言えなくなってしまう。余裕がないのはいつも俺ばかりで、ふわふわと遠くに浮かぶ彼女を、濁りきった地上からただ羨望の眼差しで見つめることしかできないのだ。
彼女がなにを考えているのか。どんな人生を送っていたのか。俺が彼女について知っているのは、ほんの少し。通う学校と本名くらいだ。ただ、それすらも彼女から聞いただけにすぎない確証のないものだった。

絶対に大切だと思うわりには、なんとあっさりとした関係なのだろうか。しかしそもそも彼女を大切だと思うこれが、一体どのような意味を表すのかすらはっきりとわかっていないのだ。

これはこの先、彼女との関係を変えていけばわかるようになるのだろうか。

しかし関係を変えたいと思いつつも、いかんせん自分の彼女に対するなにもかもがあやふやでどうしても踏み込めない。
結局のところ、俺は思い切った行動がなにもできずに停滞するしかないのだ。そう、まるで風船が浮遊してゆく姿をただ眺めるだけの、幼い子供のように。そして彼女はこちらの気などまるで知らずに、鮮やかな色の風船として空へと軽やかに浮上する。
こちらが動かないかぎり、両者の距離はただ開くばかりだ。

「……たちが悪いのぅ」
「えっ? なにか言った?」
「なんでもなか。で、なして男前って思ったんか?」
「そうだなぁ……。あの見た目とのギャップが大きかったのもあるけど、テニスにかける意気込みがかなり強かった印象があるからかな」
「ふーん」

アイスコーヒーに浮かぶ氷をストローで突く。氷はくるくると沈んでは浮かぶ。

「本当にそれだけなんだけどね。病院であんなに生き生きしている人を見たのが珍しくて、ついそのイメージで覚えちゃったみたい」
「ほうほう」

突いていた氷をひっくり返した。穴が空いた部分にアイスコーヒーが入りこむ。船が沈没する光景に似ている。

「……ねぇ、仁王くん。もしかしなくても退屈?」
「いんや、おもしろいぜよ」

あまりに腑抜けた弁解として聞こえてしまったのか、彼女はいやに冷ややかな目でこちらを見てきた。それがあまりにも似合っていて、こんな表情もできたんだな、と場違いな考えをしてしまう。
とにかく、と俺は居住まいを正して、彼女との会話を真面目なものに戻す。

「幸村は、お前さんが覚えるほどの価値がある奴だったんじゃろ?」
「それは極論すぎるよ……。まぁ、結局はそうなんだけどね」
「はー。ええことじゃ、まったく」
「……やっぱり退屈なんでしょ」

たった一回、しかも僅かな時間に言葉を交わした人間を覚えているだなんて、大したことではないか。ましてや普通の人間でも覚えることが難しい名前まではっきりと記憶に残っているだなんて。自分とは大違いだ。
僻みだとわかっているけれども、ふてくされてまた氷を突く作業に戻りたくなる。

「それに覚える価値とか言うなら、印象は仁王くんのほうが強かったんだよ?」

これでどうだ、と言わんばかりの台詞と表情。彼女は俺にとどめを刺した。無邪気そうな様子がさらに傷口をえぐる。
こんなのってあんまりだ。ついに俺はアイスコーヒーに手を触れる気すら失せてしまった。

「……そりゃあ、光栄じゃのう」

コーヒーに含まれた甘さのように、俺は言葉に皮肉を混ぜた。つまり、気づかれることはほとんどないということだ。

はたして、彼女は変わらない笑みを浮かべて、俺の真似をするようにストローを回していた。カラン。なんとも涼しい音だ。

――どうせなら、氷もひっくり返してほしかった。
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