十一月といえば充分に秋だというのに、珍しく気温は九月のような暑さを出していた。 天気予報士のキャスターはにこにこと素敵な笑顔で、今日は寒くなりますよ、なんて宣っていたのに。結果は残念ながら百八十度異なっている、ただひたすらに蒸し暑いサウナ地獄だった。 雲一つない空の下、街を歩く厚着をした人々はみな、このじりじりとした暑さにうんざりだという気持ちを惜しげもなく出しながら、急ぎ足でどこかの目的地へと向かっていた。カフェのガラス越しに見える彼らが本当に忙しいのか、それとも忙しくするのが大切なのかはわからないけれども、上着を腕に掛けて歩く姿はどこか強迫観念に囚われた奴隷のようなものを連想させる。 会社。家庭。命。さまざまなものにいつも人は縛りつけられている。たとえばいまの彼らは、真面目な面を被っている、しかし実は適当な天気予報の奴隷なのだろう。 かくいう私も素直に天気予報を信じ、ばっちり厚着をしてきてしまった人間のひとりだ。人混みに揉まれて、肌にまとわりつく汗の不快さや、厚着による蒸し暑さの虐めを受け続けたために、待ち合わせ場所に到着する前には体力を使いはたしてしまった。化粧も髪型もぐったりしていて、気落ちすることこの上ない。 恨むべきは天気ではなく、その予報。もといニュースキャスターだろう。こんなに大勢の人たちに迷惑をかけたのだから、謝罪のひとつやふたつはほしいものだ。さも当然といった様子で、「寒くなる」だなんて告げられてしまえば、信用したくなるのはあたりまえじゃないか。 でも、仮にキャスターが謝るとして、彼女らはなんと言うのだろう。「皆さんの汗をたくさんかかせ、不快な思いをさせてしまい申しわけありません」とか? あまりにもナンセンスで、ありえない話だ。そもそも彼女たちは天気予報が外れたくらいでは謝罪をしないのだから。そう、たとえそれが自分の発言と百八十度違っていて、世間の人々に余計な水分を大量に消耗させたとしてもだ。「こんな異常な日もあるんですね」だなんて、白々しくコメントをして終わらせてしまうだけだろう。きっと、責任の『せ』の字も負わないはずだ。 そんなのは無責任だ! と言いたいところだけども、彼女たちだって人間であるし、万能なわけではない。謝って賠償だなんてことをいちいちしていたら、生活が成り立たなくなってしまう。あくまでもあれは「予報」なのだ。予報を予言だと思いこむ我々にも多少の罪はある。信じるも信じないも貴方しだい、という占いのようだと思って、割り切るのがいいんだろう。 カラン、と涼やかな音が鼓膜を刺激する。アイスティーの中に浮かぶ氷が、ストローに押されてくるくると回っていた。 大切なもの。アイスティーには氷。天気予報士たちには生活。 「――私にとって大切なのは、いまある思い出かなぁ」 アイスティーの涼しさを飲み込みながら、私がそうひとりごちると、目の前に座る友だちは何ともいえないような表情をした。 「思い出……。そうなんか」 「うん。正確にはいままでの記憶」 「へぇ、たとえば?」 「うーん、それは秘密かな」 本当はこの友だちとの出会いだとか、一緒にいた記憶だとかが大切なんだけど、それを言うにはちょっと恥ずかしいのでにごしてみた。 「仁王くんは? 何か大切なものはある?」 「さぁて、なんじゃろな」 私の数少ない友だち、仁王くんはくるくると意味もなく自分のアイスコーヒーを回しつづけている。 仁王雅治こと仁王くんは、ごらんの通り男の子だ。本人の主張が正しければ、彼は私と同い年。だけれども、そのおとなびた雰囲気は彼を高校生以上の年齢に見せている。たぶん髪色もそれに手伝っているからだろう。 彼の白に近い銀髪は、なんだかアイスティー以上に涼しそうだ。 「やっぱり自分とか?」 「まぁ、そうかもしれんな」 あっさりと頷いて肯定した。だったらさっきの行為はなんだったんだろう。 聞きたいけれど、きっと仁王くんのことだから曖昧にはぐらかされるはずだ。 「そっか」 仁王くんらしいという言葉は浮かばなかった。そもそも私は仁王くんのことを「らしい」と言えるほど、彼との付き合いが長いわけじゃない。それに、身勝手なその一言で彼を固定化させたくなかった。 いつまでたっても人間はわからない生き物だから。ときには本人ですらわからなくなるアイデンティティーを、外の人間が、ましてやぽっと出の他人が、そのときの状況で勝手に判別するのはおかしいとこなんじゃないのかと私は思う。 他の人間がどうであれ、少なくとも私はその言葉は好きなものではないから。人に言われたら嫌な言葉は相手に言うなという常識に沿って、仁王くんには言わないし、言えなかった。 沈黙が私たち二人をつつむ。それでもそれは、決して心地がわるいものではなかった。 仁王くんはストローからアイスコーヒーを吸い上げていた。 私は冷たいアイスティーが入ったグラスを、そっと両手でつつみこんだ。 「大切っていったら、やっぱり一般論は愛とかお金とか命なのかな」 「アイ?」 「愛だよ、愛。愛情のアイ」 濡れた指でアルファベットのIを机に書く。 それは違うと仁王くんにつっこまれた。 「なんでそれが入るんじゃ」 「え、愛って大切なんじゃないの?」 「まぁ、大切じゃないとは言えんの」 「でしょ?」 ほら、やっぱり。 ドラマや小説の世界では、愛は命と同じくらいに大切なんだから。 まわりの音に耳を澄ませる。 ひそひそ、こそこそとした話し声。 容器を移動する液体の音。 店員さんの足音。 グラスのなかの氷のダンス。 カフェは平日の昼間だからか、少しだけすいていた。本来ならばカフェなんだから、そういうものを好む若い客が入ってしかるべきなんだろうけど、ここのカフェは穴場だそうで、いつ来てもあまりそういった客の姿は見えなかった。 いまのお客さんは私と仁王くん、あとは角の席でくつろぐ数人のサラリーマンらしき男性たちだけだ。 「でも、大切だとはいうけれど、愛情って不確かなものだよね」 「よく愛は三年で終わるっていうしな」 「それもだけど、愛情ってきまぐれなんだよね。一方通行なときもあれば、すぐに対象が切り替わるときもあって……。なんだかとうてい信じられないなぁ」 物語の世界でも、現実でも、愛は様々なかたちで形容されている。たとえばそれは裏切りを引き起こしたり、大切な命を救ったり、はたまた無価値の奇跡を起こしてみせたり。万華鏡のようにたくさんの顔を覗かせては、私を疑問の海に落として惑わせる。 カラカラと氷がぶつかる。いつの間にか、グラスの冷たい汗が私の手をしっとりと濡らしていた。 「そうか」 さっきの私と同じようなことを言って、仁王くんは目を細めながらこちらを見る。色素の薄い仁王くんの瞳は、影になっても明るかった。 いまさらな話だけど、あまり人を知らない私から見ても、仁王くんは不思議な人だと思う。私みたいな人間を話し相手にして、こうやって穴場のカフェに誘うことはもちろんのこと。ときどき私に見せる表情には、友だちに見せるには不似合いな、少しのきらめきと戸惑いが混じっているからだ。 可能性にあふれたきらめきと、迷子の子供みたいな戸惑い。 それがなんとなく、きれいだなぁと思う。 変わらない仁王くんを見て、きっと私は安心している。 迷子の私からしてみたら、彼は同類のようでいて、でも確かな道しるべを持っているからだろう。――もちろん、これも秘密だけど。 仁王くんは視線を窓に向けた。 外を歩く人々は途切れることなく行進をつづけている。 「結局、愛っちゅうのは盲目じゃろ」 「……つまり?」 「つまるところ、いちども相手からもらえる愛を疑ったことがない、もしくは愛を信じれるようじゃなきゃ、愛なんて与えられんし、受けとれん。愛を絶対と信じられんやつは、たとえ与えることができても、受けとることは――まぁ、基本的には不可能じゃな」 「わかったような、わからなかったような……」 「たとえば、一人の子供がおったとする。そいつは幼少期の頃、弟ばかりが可愛がられていて、自分自身は母親から体罰をよく与えられとった。『生まなければよかった』。そう言われて育つ」 仁王くんはそこで一息ついて、アイスコーヒーに浸かるストローを一回転させた。 響く音がわずかに小さい。氷がちょっと溶けてきたようだ。 「そして高校生くらいになったときに、弟が反抗期に入る。母親は反抗期の弟を嫌うようになる。弟がおらんときに、母親はそいつに向かって言うんじゃ。『あの子なんて生まなければよかった、あなたはいい子だから大好きよ』、と」 「……気まぐれだね。そのお母さん」 「そうじゃな。そいつが反抗期を迎えず、何事にも受け身で歯向かうことがない理由を考えたこともないような母親じゃからな――。で、子供は母親の愛情を信じられなくなるワケじゃ。『なるほど、子供に対する母親の愛ですら、不変ではないのだ。ああ、愛はかくも脆いものなのか』ってな」 「それ、実話?」 「それはどうかの。どこかで見聞きした話っちゅうのは知っとるがな」 「へー……」 私の脳内で、二人の子供とその母親の姿が生成される。子供が母親と諍いをおこしては、黄色や赤の光をまき散らしている。子供は頼る先もなく、愛を信じられないばかりに孤独でひとり、膝をかかえて泣いていた。 「愛情なんてうそだった」子供の呟きは妙に生々しい。助けはどこにもないのだから、当然の考えだろう。 ここまで考えて、ふと、父親の存在が気になった。 「その子たちの父親は?」 「普通の……世間的に見りゃあ、普通の男ナリ。これはまた今度に話そうかの」 「うん、わかった」 また今度。 きっと、その今度は気まぐれにやってくるのだろう。 それまでこの話はひとまずおしまい。脳内で泣きつづけている子供の姿を、私はためらいもなくポンと消した。 なんとなしに見た外の、ガラス越しの人々はいまだに途切れることなく歩みを進めている。それは生活のために。自由のために。普遍的な生存本能のもとに行っているのだろう。じゃあ、その本能に逆らった理性的な不合理はいったいなんのためにあるんだろう。曖昧な愛が、記憶が、私たちにどんな価値を与えるというのだろうか。 彼の目を見る。レモンのように爽やかで、氷のように澄んだ彼の瞳。夏に揺れる風鈴のような空気を感じさせる、私にとって特別な色。 からん。氷の涼やかな音が耳に響いて、そっと人々の話し声のあいだに消えた。 |