59-1

仁王が呟くとほぼ同時に、生徒たちは仁王らの目前でモーゼのごとく二手に分かれた。するとその奥から、ひとりの女子生徒の姿が現れる。
ミディアムよりかはやや長い緑の黒髪。適度に崩された制服。非の打ち所がなく整った容姿。決して派手に着飾っているわけではないが、彼女の雰囲気はどこか騒がしい。
仁王は嫌悪感から眉をひそめた。

「おはよう! みんな元気かな?」

彼女はにこりと笑う。まるでここが教室内であるかのような、ごくありふれた口調と内容だ。台詞だけを聞けば、まさにそう錯覚してしまえるだろう。
どこを見たらそう言えるんだよ。仁王のそばにいた赤也が苦々しげに呟いていた。仁王も心中で頷いた。静まり返った校内。校庭の中央で上履きのまま操られたように立ちすくむ生徒。乱れた制服でやや息を切らしている仁王たち。いったい何を見て、彼女はそのような挨拶を口にすることができたのだろう。
しかし仁王らの反応など気にすることなく、異常な少女――渡環百花は笑いながら手を差し延べてくる。

「お腹がすいたの。だから、いただいてもいいよね?」
「何を?」

仁王は思わず問いかけた。

「あなたたちの魂よ」

渡環は昨日の天気を述べるがごとく、さも当然であるかのように答える。

「食べられるんか? 人間のくせに?」
「もちろん。わたしはわたしじゃないもの。別のわたしが食べるの」
「別のお前?」
「そう。わたしじゃないわたし」

仁王と渡環の会話についていけない者たちは唖然として両者の会話を聞いていた。
そのなかで、唯一その内容を理解できるルキアはやはりなと頷き渡環を睨む。

「――貴様、虚なのだろう」
「ほろう? なぁにそれ。わたしはわたしだわ」
「しらばっくれるな。霊魂しか食さぬ奴が虚でないわけがない」
「わたしは何も食べてなんかいないのよ。ずっとお腹が空いているもの」
「虚が一ヶ月近く絶食できるわけがなかろう。今まで聞いたことがない」
「だからわたしはホロウなんかじゃないってば」

まるで押し問答だ。両者の考えがまったく噛み合っていない。
丸井は困惑しきった表情で、助けを求めるように仁王を見た。「なに言ってんだあいつら」「さあね」
後でルキアを小突いてやりたい。仁王は引きつる顔を抑えながら軽く彼女を恨んだ。説明をするのは厄介だし、他人のふりをするには遅すぎる。そもそも彼らには記憶置換機が効かないのである。仁王という一個人の生活のためにも、尸魂界の死神隠蔽制度のためにも、なるたけ下手にでしゃばった真似はしたくなかった。
他のレギュラーたちもさりげなく視線を投げかけてきていたが、仁王は素知らぬふりをし続けた。

「もういいわよ! いただくだけなんだから!」

ルキアの追及にとうとう嫌悪感が差したらしい渡環はヒステリックに叫び、こちらを睨みつけてきた。
正確には、仁王を睨みつけていた。

「わたしを振ったこと、後悔しなさい!」



一瞬、沈黙が校庭に訪れる。
仁王は唖然として渡環の言葉を聞き返した。

「……振ったこと?」
「そうよ! わたしに『興味がない』って言ってきたじゃない! みんな、みんな、わたしのものだったのに!」

まるで支離滅裂な言葉だ。
レギュラーのうちの誰かが、ぽつりと「気が狂っている」と呟いた。幸運にも渡環には聴こえなかったようだが、仁王はひやりと背中が冷えた。
この状況下で、下手な刺激を与えることはかなりよろしくない。
仁王がなんとかして彼女を説得させる術はないかと頭を働かせていたが、その努力もむなしく、渡環はふらりと一歩足を踏み出してきた。すると途端に、仁王とルキアの伝令神機が自分の仕事を思い出したかのように警告音を発しはじめた。
サラウンドで電子音が鳴り響くなか、渡環はにこりと恐ろしくも綺麗な笑みを浮かべる。

「あとはわたしの出番ね」

ついに霊圧の上昇を感じた仁王とルキアは躊躇いなく懐に手を伸ばし、義魂丸を飲み込んだ。
散々正体を隠すべく努力をしてきた仁王だったが、このような状況下になれば意味をなくす。第一に優先すべきは魂魄の無事であり、変装の命令はそれに比べる必要性すらない。
突然、同級生が分裂し、さらにその片方が旧友の姿であったことにレギュラーたちは驚愕する。だが仁王から強く睨まれたため、出かかった驚きの言葉は飲み込まれた。
仁王は抜き身の刀を軽く構えて、渡環へと改めて問い掛ける。

「死ぬ前に話を聞いてやるが、そんで、お前さんは結局なんなんじゃ?」
「知らないわ。推測だけならできるけれども」
「それでええ」

渡環はさらりと髪を揺らして首を傾けた。その視線は今ではない時間軸を見ているのか、どこか遠い目をしていた。
そのとき初めて、仁王は純粋に渡環という少女が美人であることに気づいた。

「わたしは三年前に、玖苑百花という少女に食べられた虚だわ。まぁ、最初はこちらから食べてやろうとしたのだけどね。だって、生きている魂魄体だなんてとんだ貴重種じゃない。お目にかかったことすらないわ」
「生きている――魂魄?」
「ええ。それとも、生きている死体と言ったほうが正しいのかしら。とにかく、食べようとしたそのときに、ちょうど上から降ってきたからありがたく戴いたわ。とってもおいしかった」
「そして食べられたんか」
「なぜかしらね。わたしが意識を乗っとられてしまったわ。普通は捕食者が持つべき身体の主導権を、被食者である彼女に奪われたの。でも、完全ではなかったわ。わたしと彼女の意識は半ば混濁してしまった。虚と魂魄が混じり合ったの。自我のなかったわたしは彼女の人格をトレースして理性を手に入れたし、逆に彼女はわたしの支離滅裂な本能を手に入れてしまった。生きている魂魄を食べた代償なのかしら。
 だから正確には、わたしはわたしであってわたしじゃない。この“わたし”という意識はあるけれど、それは虚が読み込んだ玖苑百花という記憶の断片をかき集めただけの集合体かもしれないし、もしかしたら虚を取り込んだわたしの夢なのかもしれないわ。便宜上はわたし(玖苑百花)を食べたこの身体を優先させて、意識のはっきりとしているわたしを虚としているけれど、いまのわたし(人格)が玖苑か虚かなんてまったく分からない」

あの支離滅裂な渡環は、玖苑の記憶を持つ虚なのか、それとも虚の性質を持つ玖苑なのか。
この理性的な渡環も同じく、本来の意識は虚なのか、玖苑なのか。
わたしをわたしだと証明することは誰にもできないのよ。渡環は目を細めて微笑んだ。

「ようわからんが、お前さんはつまるところ純粋な虚なんじゃろ?」
「そうね。あの子になっている間は半人間のようになれるけれど、この身体自体はただの虚よ。それに、人を操れるあの不思議な力はあの子の能力ですもの」
「そうか。それはよかった」

剣呑な光を瞳に宿らせ、仁王は無表情なまま口元を歪める。

「人間じゃないんなら、遠慮なくやれるのぅ。
 ――ルキア、サポートは頼むナリ」
「ああ」

雪のように真白な刀を傾け、ルキアは頷いた。アイコンタクトすら交わさず、仁王は足を踏み込んで渡環へと接近した。
渡環は迫りくる凶器などさしたる問題でもないかのように、ただ立ち尽くしては微笑んでいる。抵抗する意思表示をしなくとも勝てるという余裕の現れなのだろうか。
仁王は躊躇なく彼女の懐へと入った。

「食事の邪魔をさせてもらうぜよ」
「ひどい人ね。わたしを振るし、食事は邪魔するし。まったく紳士じゃないわ」
「生憎、紳士は俺の元パートナーの肩書きで、の――ッ!」

仁王が振るった斬魄刀を、渡環は半歩下がってかろうじて避けた。
だが剣圧によるものか、彼女の頬は軽く裂る。ばっくりと割れたそこから流れ出る血を止めもせず、渡環は目を光らせて腕を振りかざし、反撃をする。
少女の力とは思えない圧力が、仁王の立っていた真横を通り抜けた。

「虚の姿にならんのか?」
「これが、そうよっ!」
「へぇ……」

仁王は何かをぼそりと呟いたようだが、虚である渡環にすらその内容は届かなかった。
気にかける価値もないだろうと、渡環は脚を鞭のようにしならせて仁王の顔を襲う。

「――えっ」

しかし、当たったはずの攻撃は空を切るのみの結果となった。

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