甘いゆめ

鋭い刃が自らを貫こうとする。
少女は微笑み、ただ夢想する。

もう帰れない、あの日々を――。



それはとても甘いゆめだった。

わたしは神様の力で、身体は死んでいるのにも関わらず、テニスの王子様の世界に行くことができた。
大好きなキャラたちと送る学校生活。みんながみんな、ちやほやしてくれる毎日。トリップ特典のおかげで、わたしはお姫さまのような待遇を受けられた。

まるで、夢みたいな日々だった。
本当に、楽しい世界だった。

この世界にトリップする以前。わたしは学校で悪夢のような日々をすごしていた。
誰もわたしを見てくれない。
誰もわたしを気にかけない。
罵詈雑言。暴力。仲間外れ。所持品の盗難に裏切り行為。
まるで死にかけの雑草のように、わたしはこそこそと汚水にまみれて生きていた。
信じられる人はいなくて、他の世界を夢想しては逃避していた。
あそこは、わたしがわたしであることが罪とされる世界だった。ただ存在するということが罪過だと言われているような気がした。

つらい日々のなか、「夢小説のように死んだら、幸せな世界に行けるのではないか」という考えがふと浮かんだ。
逆ハーレム。トリップ。傍観。なんでもいいから、この世界から逃げてしまいたかった。

だからある日、事故でもなんでもなく、ふらりとわたしは死に堕ちた。
それは“落下”ではなく、“堕落”の行為。自殺はきっと、ただの堕落にすぎない。
わたしはわたしを故意に殺した。そうすることで救われたかった。

どうしても、幸せになりたかっただけ。



“もうすでに一度死んだってことを忘れちゃいけないよ”

神様から言われたそれは、わたしが自分を見失わないための大切な道しるべだった。
すでに死んでいること――つまり、わたしにはもう未来がないことを自覚しつづけることで、欲望に溺れないようにしなくてはならなかった。だというのに、愚かしいわたしは、あまりの日々の楽しさから、そんな大切な約束をすっかり忘れてしまった。
死んだことを忘れてはいけなかったのに。
そして身にあまる陶酔の力は、確かな道しるべを見失えば、いとも簡単に術者(わたし)をも狂わせた。

わたしはなんでもできる。
なにをしたって許される。

わたしはどこかの独裁政権のお妃のように人を動かし、思い通りに行かなければ自分勝手に振る舞った。
わたしのせいで傷つく人など気にもかけず、ただただわたしが中心でなければ収まらなくなっていった。

雅治……仁王くんから振られたそのときに、わたしは目を覚ますべきだった。思い通りにいかないことがあるのだと、自らを過信してはいけないのだということを、きちんと思い出すべきだった。
でも、わたしは癇癪を起こした。正常ではない感情に身を任せて、仁王くんを過激に攻撃してしまった。

制裁という名の虐め――あの痛みはわたしが一番体験していたはずだったのに。
そんなことすら都合よく忘れて、わたしは自分勝手に振る舞いつづけた。



夢から覚めたのは、最悪の結末を迎えてからだ。
幸せな夢は、仁王くんから届けられた手紙で終わりを迎えた。

『――なんで、お前さんは生きとるぜよ?』

わからない。
わたしにもわからない。
神様のおかげでわたしは生き返ったようなものだけど、つまるところはウォーキングデッド(動く死体)と何ら遜色はない存在だ。よくよく考えれば、それは鳥肌が立つほど気味が悪かった。

――死んでいるのに、動いて思考しているだなんて。

そしてわたしが正気に戻る前に、冷静でないわたしはまた逃避をしようと自殺を図った。また死ねば、別の幸せな世界に行けるとでも考えたのかもしれない。
ただし、その後すぐ、わたしは怪物に食べられてしまった。

けっきょく、幸せな世界になんて行けやしなかった。



怪物と混ざり合ったわたしは曖昧な自我のなかで生きていた。
なにかを食べたような気がするし、なにも食べなかったような気もする。少なくとも、わたしが知るような食物類は一切口にしていなかった。
ふらりふらりと浮遊するおかしな意識のなか、このままずっとまどろみながら生きるのかもしれないと漠然と考えていた。

でも、その考えはやっぱり甘かった。

その日のわたしは、よくわからないなにかを食べて、やはりふわふわとした満足感につつまれていた。そして、たまたま赴いた公園で不思議な男の子を目にした。
誰もいない空間に向かって、まるで話し相手がいるかのように淡々と話しかけている男の子。黒い髪、黒い瞳に、たぶん制服。聞き慣れない話し方は、あちらこちらの方言がぐちゃぐちゃに混ざっている。

そんな彼を見た途端――わたしは頭の霧が一気に晴れたような感覚がした。
あやふやだった記憶のなか、自分の名前をようやく思い出せた。

わたしの名前は百花。
百の桃の花で、百花。

なんとかしてあの男の子に近づかなくちゃならない。
ノイズの走ったこの混乱する記憶を整理するためには、あの子が必要不可欠な気がした。
不意にひらめいた名字――渡環(トワ)を抱えて、わたしは彼の通う学校に入った。
なぜだか、まだ残っていた陶酔の力とご都合主義が働いて、すんなりと入学許可をもらうことができた。



結局、自我と記憶が曖昧なわたしは同じ過ちを繰り返した。
違いといえば、わたしを殺すものが怪物か被害者かというだけ。鋭い切っ先がわたしを狙い、命を絶とうとすることは同じだった。

――仁王くんが現れたとき、わたしはどこかで安心したのかもしれない。

伝えたかった一言。きちんと自我があるわたしとして、仁王くんに言いたいことがあった。

だから、彼と戦うとき、抵抗したいだなんてほとんど思わなかった。
戦って、彼を倒したところで、未来のないわたしには何もない。何もないわたしが生きる意味なんてない。

迫り来る刃は、わたしにとって救いの輝きのように見えた。



つまるところ、幸せになりたかっただけ。
好きな人と一緒に、幸せに笑いあいたかっただけなのに。

わたしはもう、幸せになんてなれない。
『はてしない物語』の少年のように、約束を忘れて、自分を忘れて、でも、わたしは彼のように、元の世界に戻れやしない。
この物語の始まり――いちばん初めに自分を殺したわたしが、幸せになって救われるだなんて、どこまで行ってもありえない。
ただ逃避ばかりをして立ち向かおうともしない人間が、なにかを成せられるわけがない。



綺麗な銀の輝きに向かって、あの日、わたしは言いたかった言葉を口にする。

『ごめんなさい』

どうしようもないわたしの代わりに、どうかあなたは幸せになってね。


救われたかった少女の話

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