58

早朝。立海大附属高校。
昇降口前。

「……む。これはなんだ」

ルキアのなにげなく発されたその一言。彼女の横で靴を淡々と履き代えていた仁王は、現世慣れをしていない彼女が未知の物を目にしたためにそれを発言したのだと思った。あるいは、何か不快な物でも投棄されているのか。
慣れた所作で、仁王はルキアが見ているほうに視線を向けて――硬直した。

「…………」

そこには、ルキアの知識にない新物体があるわけではなく、生ごみやらなんやらの汚物――仁王はそれを一番に予想していたが――わけでもなく、ただ生徒たちが何かしらの道具を手に持って、廊下に立ち尽くす姿があるだけだった。
そしてその、何かしらの道具に問題があった。

鋏、コンパス、三角定規、金属バットに文化包丁。目に映るものを少し列挙するだけでも、明らかに平穏とは言い難い物ばかりだった。文房具や金属バットはまだしも、包丁はいったいどこから持ちよせてきたのだろうか。常識的に考えても、まず普通に所持していて許される物ではないだろう。
そして、ルキアが口に出して問うたのは、単にそれだけが理由ではない。それを持つ生徒たちの様子が、まだ和気あいあいとしていたらまだ救いがあったのだ(それはそれで恐ろしい光景だが)。しかし残念なことに、皆がみな、異様な雰囲気を発しながらにこちらを見つめていたのである。
殺気立つ者、虚ろな表情をしている者、不安そうな顔で佇む者、はたまた微笑んでいる者――どちらを向いても、まともな生徒はどこにも見当たらなかった。
あまりの異常さへのショックからか、数秒間固まっていた仁王は、突然、ぽつりと言葉を漏らした。

「……ルキア、逃げるぜよ」
「は? 貴様、一体なにを――っ!?」

ひゅん、と空気を裂く物が、ルキアの首元を通りすぎた。
見れば、先ほどコンパスを持っていた生徒が、こちらを狙って投げつけてきたらしい。まるでダーツのようにコンパスは壁に突き刺さって振動していた。
肩にかかる髪が数本、はらりと落ちたことを自覚しながらルキアは絶句した。
それを皮切りに、他の生徒たちも仁王とルキアに向かって一斉に襲いかかる。と同時に、仁王はルキアの手を素早く掴み、上履きのまま昇降口から校庭のほうへと走りだした。
されるがままに走るルキアは、見るからに動揺しながら叫んだ。

「――なっ、なっ、なんなんだあれは!」
「俺も知らん! じゃが、明らかに様子がおかしいのはわかるじゃろ!」
「たわけ! そんなもの誰でもわかるわ! くそっ――……あれは洗脳されているのか」
「かもな。俺らのクラスの生徒が多かったぜよ。――嫌な予感がするナリ」

古佐としての口調をかなぐり捨てた仁王がそうひとりごちるのと時を同じくして、とある生徒たちも、ただならぬこの異常に巻き込まれていた。
もちろん、それが誰かは言うまでもないだろう。



早朝。校内某所。

「――なっ、なっ、なんなんスかアレ!」
「オレが知るかよぃ! つーか知ってたまるかっ!」
「くっ、ボールペンも凶器扱いかよ!」
「……とりあえず、広いところに逃げようか」
「イエッサー!」

幸村率いるテニス部のレギュラー七人は、早朝にも関わらず、全力で廊下を走っていた。今日は職員の都合だとかでたまたま朝練がなかったため、たまには空き教室でミーティングだけでもしようかと行ってみれば、この騒動だ。ほとほと自分は運がないのではないかという考えが、何人ものレギュラーたちの脳内をよぎった。
言うまでもなく切原も、そう考えた不幸者のうちのひとりだ。ただし、切原の場合は、客観的に見ても同情を禁じえないほどについていない。いまだけを見ても、彼はレギュラーの中でただひとり、制服が数箇所切られてほつれてしまっている被害者なのだ。
言うまでもなく、私立校である立海の制服の値段はばかにはならない。仮にこれを生き延びられたとしても、後日、これを見つけた母親からひどく叱られ、頭を抱える切原の姿がたやすく想像できた。

「校庭ならば、安全……かもな」

そう呟く柳の脳裏に浮かんだのは、いつぞやの深夜の校庭で巻き込まれた災難だった。他のレギュラーたちもあれを忘れられるわけがなく、苦々しいような、微妙な顔つきになる。
しかし、真田は渋々といった様子ながらも、柳の提案に応えた。

「ここよりかはまだ死角が少ないはずだろうな……」
「ああもう! なんでもいいから逃げましょうよぅ!」

赤也の悲痛な叫びが、緊迫している廊下に木霊した。



「えっ?」
「あっ」

ようやく校庭へと差し掛かるとき、両者はばったりと鉢合わせた。
だが、のんびりとここで立ち話に耽る、なんてことはできないため、あたかも予定通りに合流したように、お互い校庭へと向かった。仁王は全員に正体を知られているわけではないが、幸村と柳の視線を感じたために古佐の仮面を深く被る。
そのなかで、切原は印象深い、見覚えのある顔を見つけ、指を差して叫んだ。

「アンタこの前の!」
「何のことだかさっぱーり分かりませんわ。どちらさまでしょう?」
「嘘くさっ!」
「知り合いなのか?」
「はい。なんか、ゆう――、ぐふっ」
「あら? 脚が滑ってしまいましたわ」

ルキアはオホホと似非令嬢の笑いをする。
切原は鳩尾辺りを押さえながら、彼女を怨みまがしそうに睨んだ。
そんな切原とルキアのコントを余所に、ブン太は別件で目下渦中にいるクラスメイトへと近づいた。

「なぁ、大丈夫か?」
「うん、まあ大丈夫だよ」

仁王は曖昧に笑った。反射的に答えてしまったが、大勢の生徒に何故か追われ、昔の仲間たちと走っているこの状況は、はたして大丈夫だと言えるのだろうか。
ブン太は仁王の心情など知るよしもなく会話を続ける。

「ならいいけどよ。まじでコレはなんなんだか。なんか理由知ってねぇ?」
「俺も知りたいよ。突然襲い掛かってきたんだから」
「あ、俺もそれだぜ。廊下に出た途端、いきなり文房具を片手に襲ってきてさ、」

ビビったぜ、という言葉は、鋭い鉛筆が丸井の横を通過したために消えてしまった。

「くそっ、囲まれたか」

咄嗟に目的地へとしてしまったが、校庭という選択肢は誤りだったようだ。しかし、だからと言って、正門から逃げれば、街の人間に被害が及ぶ可能性があったはずだ。その点で考えると、これは完全なる正解とは言えないが、不正解でもないとしか評価しようがない。
異様な生徒たちは無言のままに、じりじりと近づいてくる。レギュラーと仁王らは、自然と背中合わせの円形へとなった。

「どっ、どうするんスか!? オレ、喧嘩は苦手じゃないんスけど、こんなに大勢は無理っスよ!」
「というか、近所の人間はこの騒ぎに気づかないのか?」

柳の呟いた言葉で、ルキアはハッとしたように仁王の顔を見る。
操られている様子の生徒たち。
この異様さに気づかない街の人々。
明らかに人間の仕業ではないそれらの現象が示すものは、つまるところ――

「……義魂丸を持ち歩いていてよかったよ」

仁王は古佐としての口調のまま、口元をニヤリと歪めた。


不協和音トランス

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