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丸井は自分の不運を呪った。はたまた、そうなった要因たちを呪った。
要因というのは、丸井が立海に入学したことであり、高校に入ってこの三年B組に所属させられたことだ。さらに言えば、あの転入生がこのクラスにやってきたことを盛大に恨んでいた。
丸井は虐めが嫌いだった。というのも、それの二次被害として人間不信に陥ってしまったからだ。交友する人が増えれば増えるほど、交遊関係が深ければ深いほど、それだけまた自分が傷つく可能性が高まるのだと恐れていた。ゆえに彼は針鼠のように、自分が傷つけられる前に周囲の者と距離を置いて、または鋭い針で先に攻撃を行って心の平穏を保とうとしていた。
もちろん、それは誰にとっても幸せな状況ではない。丸井はそのことに三年がかりで気づき、最近になってようやく改善の兆しを見せたのだ。それに関してはダブルスのパートナーである桑原は諸手を挙げて喜んだし、丸井自身も、今の自分は悪くはないと考えていた。
話が脱線したが――それはともかくとして、今の丸井はこの状況下を恨んでいた。
場所は校舎裏。時刻は十六時。放課後になってゆうに三十分はすぎている。平時の丸井ならば今ごろテニスコートの周りを走っているのだろうが、今日は“たまたま”教師に用事があった。そして部活の遅刻への焦りから、あまり使われない道で部室へとショートカットをしようとしたら――不幸かな、あれに出会ってしまったのだ。

「渡環さんに謝れよっ!」
「目障りなんだよ! わかってんのか!」
「うっ、あ……っ」

嵐だ。丸井は痺れた思考で考えた。嵐が、目の前にある。
嵐は耐えようのない力を振るい、非力な個人を薙ぎ倒して進むのだ。

つい最近、自らのクラス内で虐めが始まったことを丸井は知っていた。丸井とてあの雰囲気が異様だと、なんとなしにも理解していたので、もちろん止めようとはした。しかし、自分に向けられるクラスメイトの視線があまりにも恐ろしく、結局は断念してしまったのである。丸井は三年前のあの恐ろしさを知っているだけに、むやみに立ち向かうことができなかったのだ。つまるところ、丸井は虐めの存在に屈したと言っても過言ではない。しかし、あの行為を知る者が怖じけづいたとして、いったい誰が叱責できようか。――人はみな、自分の命が一番かわいいのだから。
そして、それと同時に、丸井は虐めの存在を簡単に容認できなかった。矛盾するようだが、どうしたって丸井は虐めが嫌いなのだ。そして、見て見ぬふりをするのにも限界はあるのである。いくら耳を塞ぎ、目を瞑ろうとも、あの独特の空気は丸井の肌に纏わり付いて離れない。最近は登校することすら憂鬱になるありさまだった。

人が人を殴る音がする。
確認するまでもなく、被害者が誰かは分かってしまっていた。
顔すらまともに思い出せない優等生を考えながら、丸井は物陰で、すくんだ脚を労るようにしゃがみ込んだ。

幸村に言われれなくても分かっている。
『虐めはいけない』
『虐めは止めなくてはいけない』
正義感を振りかざすのではなく、単純な正義としてあらねばならない形なのだ。
ただ、そんな正論ばかりがまかり通っていれるならば、今の世はもっと生きやすくなっているはずだ。
人は人を裏切るし、平気で傷つける。利益のためならばなんでもする者もいる。どんなに優しい人間だって、裏では何を考えているのか分かったもんじゃない。
丸井は幼子のように、一生懸命に心中で叫んだ。

みんな自分が可愛いんだ。それのなにが悪いんだ。

一方的に被害を受けているであろう男子――仮定するまでもなく古佐だ――の姿がちらりと丸井の目に飛び込んできて、丸井は慌ててさらに物陰へと潜んでいった。制服が土で汚れたが、今の丸井にそれを気遣う余裕はなかった。
耳を塞ぎ、目を瞑ったところで何も逃れられやしないのだ。しかし丸井は地面の上で膝を抱えながら、何もかもから逃避しようとした。
塞いだはずの耳から、殴る音、蹴る音が弾ける。と同時に、聞き覚えのある声が響いた。

“――見捨てたな。”

古佐の声が、何故か仁王の声と被って丸井の脳内を流れた。

「……違う」

あの時、虐めに屈した丸井は、席に着きながらおずおずと古佐の顔を伺った。古佐は失望したふうにも、怒ったようにも見えなかった。ただ、そうなることをあらかじめ分かっていたかのような、諦観しきった様子が顔に広がっていた。
三年前。仁王は今のように複数人に囲まれて暴力を受けていた。丸井は「ざまあみろ」とせせら笑いながらも、内心はどうしてこうなったのかと迷子のように途方に暮れていた。しかし、その気持ちすら「だから自分は被害者なのだ」と正当化することに利用していた。そして、丸井の目の前にいた仁王は、やはり諦観しきった表情で全てを受け入れていた。

丸井は今さらながらも仁王の無実を朧げにも感じていた。それは今回と同じく明確な証拠はないが、確かにそうなのだという意思だった。
あのとき、丸井は仁王を見捨てた。それは変えようのない過去であり、事実だ。たとえ勘違いをしていようとも、仲間として、友人として、あるまじき行為に走ってしまった。その後悔は一生悔やんでも悔やみきれないだろう。

しかし、今はどうだろうか。

古佐は丸井のクラスメイトだ。それ以上でも、以下でもない。数回ほど会話をした覚えはあるが、それとて最低限の内容にすぎず、友人とも呼べない関係だと言い切れる。ただのクラスメイトにしても、つき合った期間が短すぎる。
だが、古佐は無実だと、直感的だが分かっている。
無実の友人を誤解から見捨てるのと、無実の他人を分かっていながら見捨てるのでは、一体、どちらのほうが罪深いのだろうか。
丸井はその答えを出すことにすら億劫になりかけていた。
鈍い頭を抱えながら、そろそろと立ち上がり、来た道を帰ろうとする。古佐と渡環がこの学校へとやって来たことを本格的に恨みたくなった。

「……この、裏切り者ッ!」

クラスメイトのものであろう声が響く。
冷たい風が丸井の横を過ぎるのと同時に、ふと、数週間前の自分の言葉を思い出した。

“――仁王に裏切られて逃げられたんだと思い込んで、勝手に傷ついてた。でも、それは違うって気づいたんだよぃ。”

『悩んでいたって始まらない、前に進まなくてはならない』
そんな心持ちで、自分はあの決意を述べたのではあるまいか。清々しい気持ちと共に、パートナーである桑原にそう言ってみせたではないか。
それならば何故、こうして自分は立ち止まって、駄々をこねているのだろう。
『仁王に殴ってもらう』
それは、今の情けない自分にも言えるのではないか。

「そうだ。オレは……」

はっと夢から醒めたように丸井は呟いた。あの冷気が悪夢を晴らしてくれたのだろうか。
彼の頭上では銀色の光が煌めていた。それはあたかも雪解けの反射であり、無機質な鉄の眼差しであった。
丸井は深呼吸をひとつし、物陰から一歩、勢いよく足を踏み出した。


ここから始まったって遅くはない

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