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その日の渡環百花は喜びから小躍りしていた。計画と言うにはとても拙い策がまんまと成功し、自分の予想通りに上手く物事が展開したのだ。これを喜ばずしてどうするというのか。思わず洩れそうになる笑みを抑えつつ、彼女は自室の寝台に倒れこんだ。
これからあの人間は追い詰められるのだ。そう考えただけで、渡環は寒気にも似た興奮を覚える。どのようにして虐め抜こうか。どのようにして絶望に染め上げようか。おおよそ純粋とは言いがたい妄想に浅く浸り、とうとう堪えきれなくなった渡環は笑いをこぼした。

「ふ……ふふっ、あははははっ。簡単かんたん! ぜーんぶ、みーんな、百花のものなんだから!」

甲高い声が暗い室内に響く。窓から見える空はとっくに夜を迎えていた。しかし彼女は電気を点けるそぶりすら見せずに、ただただ己の歓喜に身を任せている。

「前も失敗してなかったんだから……! まちがいなんてないんだから!」

彼女に以前の記憶はあまりない。ただ、自分は百花という名であるということだけを意識して、彼女は生きていた。それに不安を抱くことはなく、喜ぶこともなく、渡環百花は渡環百花という生き物として存在しつづけていたのだ。

「わたしは……いきているんだから……!」

墨をこぼしたように広がる闇の中を、かつて命を失ったはずの少女の声が、いつまでも、いつまでも響いていた。



古佐騒動の翌日。三年B組。

「おはよう百花ちゃん」
「百花ちゃん大丈夫?」
「無理しないでね?」

渡環が教室に入ると共に、彼女を気遣う声が掛けられる。渡環は弱った笑みを浮かべて、それらを受け止めた。

「うん……大丈夫だよ」

クラスメイトたちの目には、それがむしろ健気に写ったのか、さらに彼女を哀れむような空気が増す。と同時に、加害者だと信じている者への憎悪もますます増えた。
例えるならば、息苦しいまでの焦げ臭い負の空気が教室に充満する。彼らの盲信は、もはや害のあるものへと完全に変わりはててしまっていた。
だが、それを自覚する者はなく、認識する者もおらず、狂信的な傀儡たちは、祭り上げる少女を傷つけた正常な人間を弾圧する。

「古佐なんかに負けんなよ!」
「そうそう。私たちが味方だから」
「古佐くんにはちゃんと私たちがなんとかするよ」
「絶対にあいつ、許さねぇ」

渡環はただ、微笑むだけだ。
その、柔らかく、無機質に温かい笑みは、しかし級友たちを惑わす力になる。ある者は頬を赤く染め、またある者は狂気的な光を目に宿らせ、自覚をすることなくゆるゆると、この小さな少女に魅了されるのだ。
それは以前、古佐に興味を持って話しかけてきた女子とて例外ではない。見れば見るほど引き込まれる雰囲気に、彼女もまた、比例するように古佐に対して強い憎悪を抱いていた。

「こんなに可愛い子を襲うなんて……古佐くんひどいよ」
「…………」

古佐は頬杖をついて窓の外を眺めている。自身に突き刺さる視線を意に介することもなく、のんびりと席に着き、時折あくびまでしている有様だ。いままで真摯で優しかった人間からは到底できないその変貌加減に、クラスの者たちはやや驚きながらも、厳しい視線を増させる要因にさせていた。
つい先日、古佐と渡環の事件が発覚したというのに、噂はもう他のクラスにまで広がってしまっているらしい。廊下から生徒たちが噂の真偽を確かめようと顔をちらほら覗かせては、渡環の姿を見つけると、頬を赤らめて惚けたようにするのだった。

「あのね……わたし、昨日もあのあと古佐くんが……」

両手で顔を覆う。それがよそからは泣いたふうに見えるのか、涙はおろか、嗚咽も漏らしていないにも関わらず、周りの生徒たちはざわめいた。

「いい加減にしろよ古佐!」
「見損なったよ古佐くん!」
「…………」

古佐は我関せずといった様子で、こちらとは違うところに顔を向けている。あまりに自由なその態度が、むしろ生徒たちの神経を逆なでて、逆上させた。

「無視するんじゃねぇ!」

机を叩く、強い音が鳴る。
古佐が音源のほうに、面倒そうな様子でちらりと目を向ければ、それを発したであろう男子生徒が、古佐を視線で居殺さんばかりの勢いで睨みつけていた。
そこで、ようやく古佐は噤んでいた口を開く。

「……なにか用かな」
「むっかつくんだよお前! 人を傷つけておいて、よくものうのうとしていられんなぁ!」
「だって、俺は無実だから」

さらりと吐かれた言葉は、一瞬だが教室内の空気を硬直させた。しかし古佐はそれを気にすることなく、続く言葉を紡ぐ。

「そこの、渡環とかいう女子に手を出すほど俺は馬鹿でもなければ、本能的でもない。そもそも、見損なうほど君たちと長く触れ合っていないんだから、見損なわれる必要がないよ」
「……はぁ?」
「ねぇ、渡環さん。俺には確固たる、立証できるアリバイがあるんだけどさ。――それでも俺に罪があるって主張するのかい?」

そこまで古佐は言い切ると、また何事もなかったかのようにそっぽを向いた。
渡環は生徒たちの中で、ぎりりと唇を噛みしめた。お前たちに深く干渉することなどない。そう言わんばかりの態度は、彼女を予想以上に動揺させたようである。心配げにこちらを見る生徒を気にすることなく、渡環はきつく古佐を睨んだ。

「……そうしておけるのは今だけなのよ」
「へぇ」
「わたしに手を出しておいて、ただじゃ済まさないんだから!」

明らかに変わった様子の渡環を気にする生徒は、どうしてか誰ひとりとしていない。互いに視線を交える渡環と古佐だけが、教室内に存在しているように錯覚するほどまでに、両者に広がる空気は冷ややかなものであり、鋭利で限定的なものだった。

「じゃあ、覚悟しておくさ」

にこりと笑い、渡環を見る古佐は、やはり、優等生と言うには似つかわしくない目をしていた。


うらのおもての水面下

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