盲目の俯瞰と歩み

残された教室には二人、幸村と柳がいた。
お互いの距離は近いものの、会話を交わさず、目すら合わせない様子は、どこか遠い位置に二人がいるかのように思わせる。
両者の間には、沈黙が流れていた。それはさきほどの出来事による気まずさからくるものではなく、互いに、異なる物事を考えこんでいたからであった。幸村は、仁王から投げられた言葉の意味を探っていたし、柳は幸村の心情を計りつつ、これからの行動を決めていた。

柳は、幸村と仁王の間に交わされたものについて、とやかく何かを言うつもりはなかった。なぜならば、あれは二人だけの問題でもあり、自分たちにも関わるものだと理解していたからだ。
ゆえに、柳は幸村がなんらかの行動を起こすまで、大人しく待ちつづけた。
しばらくの間、幸村は仁王が去った扉を向いて、じっと立ちつくしていた。黒板の前に立つ柳の方からは、今にも崩れ落そうな、華奢な背中しか見ることはできない。

「……これは夢なのかな、柳」
「詩的な意味でそう言っているのかどうかは判断しかねるが、幸村の考えていることを推測するに、これは夢ではない、と回答しておこう」

小説に綴られている文字を吐くように幸村がぽつりとそう言えば、柳はいたって普段通りの、真面目な返事をした。
そんな柳の言葉を聞いているのかいないのか、幸村は未だに柳に背を向けたまま話しだした。

「今日一日が夢みたいなんだ。まるで俺だけ気泡の中にいるみたいに、みんなと隔たりがあって、いつも見えるものも、なぜか不透明な壁を通して覗いているように曖昧なんだよ。自分でも驚くくらいに感情の波を抑えられないし……。だいたい、丸井があんな発言をしたり、死んだはずの仁王が出てきて喋るなんて、わけがわからない。夢よりもたちが悪い」

幸村の行為は、柳に話しかけるというよりも、自分自身に向かって語りかけるように見えた。

「では、仮に夢だとするならば、幸村はこれからどうしたいんだ」
「どうしたい?」

幸村は柳の言葉を反復した。
そこにきてようやく、幸村は振り返って、柳の顔をはっきりと見た。彼の口は、自らを嘲笑うように歪んでいる。

「……夢が醒めるのを待つよ。悪夢だろうが何だろうが、夢っていうものは醒めるものだろう? だったら、俺は大人しく待つさ」
「自分の手で、掴み取ろうとはしないのか」
「それはしない。いや、以前なら……そうだった。たしかに、仁王のために全国大会を優勝することは誓った。でも、それは掴み取ると言うよりかは義務みたいなものだ。第一、俺が何かを掴むことなんて、絶対にできないんだから」

端から、手に入れようと努力することが徒労なんだよ。
そう呟き、己の手の平を見る幸村の目は、ひどく暗い影を宿していた。

柳は、またしばらく動かなくなった幸村を一目すると、この悩みがちな部長に一人で考える時間を与えるために、「俺は部活に参加してくるぞ」という言葉を残して教室を出た。

幸村を含めたテニス部のレギュラーたちには、まだ考えなくてはならないものがある。そのことを、柳ははっきりと理解していた。
そして、それはあの夜から大きく露呈して、これまでとはまるで変わってしまったことも。



だんだんと小さくなってゆく足音を聴きながら、幸村は一人、教室で立ち尽くしていた。

彼の細い肩は崩れ落ちそうになりながらも、いつも気丈にして、崩壊しないように保っていた。
彼には人一倍プライドがあったし、責任もあった。あの夏に負けたときだって、泣くことは絶対にしなかった。

謝らないこと。
泣かないこと。

それが、仲間に対する一番の贖罪だと思っていた。

いつでも頑固な彼は、常に自分の信じるものを中心に突き進んでいた。
間違いは絶対にないと決めつけて、些細な障害からは目をつむり、ずっと、ずっと、ただひたすらに真っすぐ歩いてきた。
とある大きな事件が起きたときも、終わったときも、いつも『これでいい』と考えて、過去を振り返る必要性などないと信じていた。
……つまるところ、そんな彼は、自分の価値観が世界の全てだと思っていたのだ。

「……――っ」

頬から流れる涙のように、彼がぽつりと零した言葉は、誰にも知られることなく、教室の床に転がり落ちた。


しらないしらない、しりたくない

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