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屋上の扉が、錆びた音と共に開く。
春にしては寒い風が、入ってきた者の頬を冷たく撫でた。

「またここに来たんか」
「仁王くんこそ……、また危ないところに登っていますね」

仁王と呼ばれた男は、フェンスの上に座り、今し方やってきた後ろの人間と言葉を交わす。扉からは背を向けているが、両者ともそれを気にする様子はなかった。さらに仁王のほうは、自分の脚が細いフェンスの端からゆらゆらと危なかっしげに揺れて、見ている人間をはらはらさせていることもお構いなしだ。むしろ落ちそうにする仕草をして、後ろの人間が動揺したりする姿を楽しんでいるように見受けられる。

「こんなに授業をサボって大丈夫なんか」

仁王はまだ後ろを振り返らずに言った。どうやら今日は、この姿勢で会話を行うつもりらしい。

「へぇ、仁王くんが心配してくれるとは珍しいですね……。ええ、大丈夫ですよ。普段から私は品行方正で通ってますから、少しくらいのサボタージュなら問題はありません」
「だーれがお前さんの心配なんてしちょるか。心配じゃなくてからかいじゃき。……ちゅうか、先生も欺くなんざ、ほんまに俺よか詐欺師なヤツやのぅ、柳生は」
「褒め言葉として、受け取っておきます」

柳生、と不満げな声で呼ばれた男は、クスリと愉快そうに笑った。一見すると嫌味にしか見えない仁王の言葉は、慣れればその本意を理解することができる。つまり、柳生はこの嫌味尽くしな言葉を聞いて、意訳したために笑ったのだ。
仁王は実際にこちらの心配をしていたし、先程のあれは照れ隠しだった。柳生はちらりとそう考えた。声のトーンで、すぐに嘘をついているのが分かるのだと、以前に教えたはずなのに、どうやら何故かまだ改善されていないようだった。他人に理解されたいと思う割には、全てを知られたくないと考えるこの詐欺師にしては、珍しい失点でもある。――しかし、それを指摘する気は、この紳士にはさらさらなかった。

「……詐欺師と言やぁ、アイツも詐欺師じゃのぅ」
「アイツ、とは?」
「我らが部長――つっても、今の俺には関係ないがな。あの幸村じゃって、かなりの詐欺師ナリ」

自信満々に言い切る仁王に対し、柳生は僅かに眉を潜めた。

「どういうことなんですか?」

柳生の経験から、たいてい仁王が話題を振ってくる場合というのは、仁王に何らかの悩みや事件があったときなのだ。わかりやすいと言えばわかりやすいが、何せこんな性格をした男なだけに、見過ごしやすい特徴であった。
仁王は柳生の反応が期待通りのものだったのか、ゆらゆらと足を揺らしながら話し始めた。

「詐欺師っちゅうのは、簡単に言えば、ヒトを欺いて損害を与える奴のことを指すんじゃろう? ……幸村はな、あの問題からずっと目を逸らしておる。自分を騙し騙して、そうやってなんとかここまで来とるぜよ。――つまり、アイツはアイツ自身を欺いてるっちゅうことになるんじゃ」
「自分自身を――?」
「あぁ。馬鹿馬鹿しい行為じゃろ? まぁこれで考えたら、あの幸村とこの俺は、確かに似ていると言えるのぅ。
 ついでに言えば、ここで発生するアイツの損害は、周りとの関係の悪化、じゃな」
「……そうですか」

柳生は仁王の言葉に何を思ったのだろうか。それは仁王には分からないことであり、柳生からも、仁王の考えは知りようもないものなのである。
仁王はフェンスを踵で軽く蹴り、しばらくの間、沈黙した。次に何を言うべきなのか。それは仁王自身も悩んでいたのである。

柳生と仁王の関係というのは、実に明瞭なようであって複雑だった。
二人はかつて親友であった。長い間、テニスを通じて交流をし、それ以外のときでも一緒にいることがよくあった。ダブルスの公式戦では負けなしだった二人は、対照的なようでいて、根本的なところが似ていたのだろう。互いに互いを、大切で信頼できる友人だと思っていたのだ。
だが、それは三年前に起きた事件によって、清々しいまでに解消されてしまった。玖苑の自己満足に振り回され、巻き込まれた二人は、親友という関係から一転、虐める者と虐められる者という酷く暗い関係になってしまったのだ。その頃にはもはや友人とは到底呼べるものではなく、むしろ敵に近い存在になってしまった。
そして数ヶ月後、耐え切れなくなった仁王の自殺という形で、ついに関係は断絶され、長い付き合いはようやく終わりを迎えたのだった。――が、何の因果か、二人はまた巡り会ってしまったのである。

昔からの惰性で、<以前のような会話>らしきものはできている。しかし、あの三年前の事件以来、お互いに顔を合わせて、想いを曝け出した会話は未だにしていなかった。相手の本音や感情はそれとなく分かってはいるが、それはあくまで一方的な主張のぶつかり合いであり、決して交流はしていないのだ。

故に、まだ距離感が掴めない。

会話をする際には、柳生は後悔や怯えが時折混じり、仁王は仁王で、相手との精神的な距離が広いことを感じていた。何かしらのきっかけが起きればいいと、両者が半ば努力を放棄して神頼みをしているのだから、当然、縮まるわけがない。

「……仁王くんは、どう思っているんですか?」
「何のことを言っとるんじゃ」
「今の、テニス部のことですよ。あなたが消えてから変わってしまったこの部活のことを、あなたは一体どう思っているんですか?」

それは随分と大胆な質問だった。
それを発した本人ですら、そう思った。だが、音というものは一度振動させれば取り消すのは不可能に近い。それに、柳生はその質問をしたことに後悔はしていなかったのだ。
柳生は仁王の反応を待った。怒るか泣くか、反省するか、はたまた無視をしてここから逃げるか――。それは、長年共にいた仲だとしても、予測はできなかった。
仁王は風に髪を揺らしながら、しかし、決して振り返らないまま答える。

「悪いとは、思っておる。死んだのは俺の勝手じゃったが、与えた影響は大きかったんじゃと思う」
「仁王くん……」
「身勝手なことかも知れんが――俺は、後悔しとるんじゃ」
「後悔……?」
「あぁ。どうしてこうなったんじゃろうって、常々考えとる。……俺は、ただ、幸せになって欲しかっただけなのに」

呟くような声は、周りの雑音に掻き消えそうになりながらも、柳生の耳には真っすぐ届いた。

「幸せ、ですか」

柳生が言葉を反復しても、返事は何も返って来なかった。恐らく、仁王はもうこれ以上この話題には触れたくないのだろう。柳生の仁王との経験が、そう結論づけていた。元来、猫のように気まぐれで自由な人だ。そんな人間が、ここまで律儀に元親友と会話をしているだけで奇跡に近いのだろう。
柳生は、仁王の言った言葉の意味を模索しつつ、別の話題を提案した。された方は、再び脚を揺らしながらその話題に乗ってきた。
<以前のような会話>を、また二人は飽きずに行う。
だが、このように、かつて仲違いを起こした者同士が交流していること自体には、多少なりとも意義はあるのだろう。
例えきっかけが起こらなくても、少しずつ、また元のように戻ればいい。この似た者同士は先程の神頼みと同時に、ぼんやりとそう考えていた。

――そして、その考えはあながち間違いではなかったことは、時間が証明することになるのである。


一人目は親友に

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