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氷は冷たい。
白く凍えた息を吐きだして、冷えた身体を抱き寄せた。
それでも、手足の先から体温はどんどん失われていく。
いっそ、このまま何もかも分からなくなってしまえばいいのに。
それを呟く口さえ、凍っている。
呼吸のために吐き出した息は、ずいぶん昔に消えたような気がした。

『だれか、俺を見て』
何度も何度も願った言葉。
だれも、俺を見てくれない。
みんなが見るのは違う俺。
俺のまわりにはいつもすれ違いしかない。
母さんは、いつか分かる時が来るって言っていた。真実は偽りより弱いだけで、必ず見つかるって。そう、俺の頭を撫でながら。困ったような笑顔で笑いながら。
でも、いつまで経ってもそんな時は来なかった。
――ねぇ、いつ来るの?
――いつ、俺を見てくれるの?
問いても問いても、明確な答えは最後まで返ってこなかった。
ただ、母さんの曖昧な笑いが顔にずっとこびりついていた。

そのうち、人なんて信じれなくなった。
どこもかしこも嘘ばかり。
だって、だれも本当の俺を分かってなんかいやしない。
身に覚えがない噂ばかりが、勝手にひとり歩きをしているだけ。なのに、みんなはさも全てを知っているような顔をして近づいてくる。
――こんなことを望むのはいけないこと?
自分を信じてほしい、見てほしいなんて。
――バカな考えなの?
失望してもなお、母さんの言葉に希望を持ち続けているのは。いつか、誰かが俺を暖かくしてくれるだなんて、そんなふざけた夢物語のような夢を、宝物のようにずっと大切に抱いているのは――。


そしてある日。
寒くて、寂しくて、泣いていた俺を包みこんでくれたのは、変わった姿をした男の子だった。ニコニコと裏表の無い、純粋な笑顔を初めて俺に向けてくれた。凍えた世界で、ようやく暖かさを感じることができた。これが、“それ”なんだと優しく教えてくれた。

「……大丈夫だよ。俺がいるから。俺が側にいるから。だから、独りだなんて言わないで」

頭を撫でる手は暖かかった。
ゆらりと揺れる尻尾が目に映る。

綺麗な耳と尻尾が、印象的な男の子だった。



「……幸村」

仁王がぽつりと名前を呼べば、わかりやすいまでに幸村は身体を揺らして反応した。仁王は相変わらず机の上に座って、よくわからない表情をしている。両者の間にいた柳は無言で、二人の様子をただ傍観していた。
ややの沈黙は気まずいものだった。珍しく放課後に吹奏楽部が練習をしていないために、校内は寂しいほどの沈黙に包まれている。校庭からは運動部、恐らく野球部の活動でもしているのか、カキンという金属バット特有のボールを打つ音と、歓声や掛け声が波のように聴こえてくるのみであった。テニス部がはたして活動しているかどうかは、ほぼ締め切っているこの教室からでは判断は難しい。たとえ活動していたとしても、部長がここにいる以上は自主練習という選択肢しか選べないだろうが。
どこかに存在する隙間からの風で、カーテンが揺れたのとほぼ同時に、仁王はようやく話し出した。

「俺が死んだのは、いわば天災みたいなもんじゃ。“たまたま”転入生が俺のクラスに来て、“たまたま”そいつが俺に目を付けて、“たまたま”耐えられなくなった俺が逃げただけなんじゃ。だから、幸村がそうやって何回も泣いたり悩んだりする必要なんて、まったく――」
「ふっ、ざけるなッ! じゃあ、俺のいままでの悩みは、後悔は、怒りは、無意味だったっていうのかっ!」

幸村は仁王の話を遮って、バンッと近くにあった机を叩いた。その手が痛みに震えようと、今の彼に気にする余地などない。

「どれだけ仁王を失ってから俺は、悔やんで、傷ついて、戦ってきたと思ってるんだ! みんなバラバラになって、おかしくなって、どうやって悩むなっていうんだよ! 知っていたのに助けられなくて、後悔するななんて無理な話だろ!? まるっきり変わってしまったものを、気にせず生きれるわけがないだろ!! ――俺の苦労も知らずに、それを、そんなふうに、否定して――ッ!」

ぽたぽたと目から出ている涙に気づいているのかいないのか、幸村は仁王に歩み寄りながら、胸倉を掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。それはまるで憤怒している覇者のようであり、自分の世界でだだを捏ねている子供のようにも見えた。
世界には仁王しかいないかのように、彼はただ、涙を流し、息を荒くさせて、かつての仲間を睨む。
仁王はただ沈黙して、それを静かに受けていた。

「…………」
「…………」
「……なぁ、何か言えよ。仁王」
「……昔、一人の子供がおった」
「――は?」
「その子供は、ただ、“他人と変わっている”という、それだけの理由で、他人から敬遠されていた」
「…………」

仁王が突然始めた話に、幸村は困惑したが、遮ることはせずに続きを促した。恐らく、幸村自身も子供時代にそのような経験があったことを思い出したからだろう。
仁王は黒く染められた髪を少し揺らして、己が一番よく知っている話を友人に向けて紡ぐ。

「子供はいつも一人じゃった。学校に来れば味方はまったくおらん。先生たちすら避けるような仕種をする。子供は純粋故に何も知らんかったが、それでも、何かがおかしいということには気づいていた。……孤立していて、遊び相手はなかったからのう。休み時間のときも、みんなが遊ぶ姿を遠くから、じーっと眺めることしかできんかった」
「…………」
「それがどれだけつまらなくて、辛かったんかは知らん。じゃが、確実にその子供の心は凍ってしまった。身内以外の他者との関わりに、何一つ意義を見出だせなかったから、他人というものは、つまり゛そういうもの゛なのだと決め付けてしまったんじゃ。世界が狭いから、当たり前と言えば当たり前の話じゃけどな。
 ……でも、少し大きくなって、その子供は新しい世界に行ったんじゃ。そこにはまったく子供が知らんかった、違うものがたくさん広がっておった。
 初めてじゃった。初めて、笑顔で話し掛けてもらって、一緒にふざけて、泣いて、怒って、一つの目標に向かって一生懸命努力をして――全部、初めてだったんじゃ。生まれて初めて、他人とは違うという当たり前のことを気にせずに出来たんじゃ」

知らず知らずのうちに、感情移入をして話してしまったかもしれない。だが、仁王は気にすることなく、幸村はじっと見つめた。睨みはしないが、視線を外せられない力がそこにはあった。

「お前らにとったら馬鹿馬鹿しい話かもしれんがな、そいつにとってはそれが何よりも大切で、輝いとったもんじゃった。だから、それさえあれば、大切な友人たちから何をされようが気にはしない。――幸せじゃった、からな」

幸せだ、と仁王は言った。
幸村はその言葉の意味を初めて知ったかのような表情をした。

「……そんなの、俺は知らない」
「当たり前じゃな」
「その子供のことなんて、まったく理解できない」

そう言う幸村の顔は、やはり少し歪んでいた。制服から覗く手は白くなるまでに固く握られている。
仁王はそれを見て、自重ぎみに口角を少し上げた。

「理解しろとは言っておらん。俺だって、幸村の苦労した気持ちなんてまったくわからんしな」
「……薄情だな」
「当たり前じゃ。他人のことなんて全く分からん」

これでもう話は終わりだと言うように、仁王は座っていた机から降りて、教室の扉に脚を向けた。幸村は自分が睨むために仁王を見ているのか、仁王を見て睨んでいるのかわからなくなっていた。
そして、仁王の脚があと数歩で教室を出るとき、仁王は唐突に思い出したように振り返った。

「――そうやって、自傷行為を続けるのは幸村の自由じゃが、もっと周りを見たほうがええと思うぜよ」

驚く相手の反応を待たずに、仁王は軽やかな足取りで教室から消えた。
その一瞬、幸村の目には、今の仁王には無いはずの、特徴的な長い髪が揺れる姿が映ったような気がした。


でも、人間なんてそんなもん

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