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その日の放課後、幸村精市は廊下を歩いていた。彼の内面を知らない者たちからすると、ただ単に急いでいるのかと勘違いしてしまうほどに冷静に、しかし分かりやすいほどに早足で、幸村は行く宛てもなくただ歩いていた。カツカツという上履きからはおおよそ出なさそうな音を響かせて廊下を歩く姿は、やはり何も知らない者からすれば、多少の洞察力があったとしても、少し怒っているのかと考える程度のものであった。
幸村の内面――例えるなら、嵐の海のように荒れているその内面を簡潔に説明すれば、『彼は混乱していた』のだ。人の内面なんてものを軽々しくは説明することは容易ではないが、とにかく、この青年に満たない少年は混乱、ないし、いらついていたのだ。何故かと問われれば、原因は今朝の朝練後の会話にあるとしか言えない。――そう、部活仲間である丸井の言葉だ。幸村はあれに動揺させられたのだ。

「(なんでなんだ! なんで、なんであんなに簡単に……! 丸井は、“あいつ”のことなんて、もうどうでもいいっていうのか!)」

幸村は超能力者でもなんでもない、一介の高校生だ。もちろん読心術なんてものを持っているわけがないのであり、あのときの丸井がどのような考えを持ってその言葉を口にしたのかは全く分からない。つまり、幸村のそれは思い違いなのである。たとえ丸井の心を理解した気がしたとすれば、それは読んだのではなく、独りよがりの読心だ。言い換えれば、妄想とも言うのだろう。幸村は特殊な力など何も持ち合わせてはいないのだから、真実は妄想で創作するしかないのだ。
そしてその、幸村の盛大なる勘違いを正す者は残念ながら此処にはいなかった。そもそも幸村がこのような考えを抱いていることすら、認知している者が現在の時点でいないのだ。当然と言えば、当然だろう。あの事件以来、幸村は“特定の人物”以外の他人に対しては、常に心理的な距離を置くようになったのだ。日常の相談、ましてや心の悩みや葛藤を曝け出せるような人間が一人としていないのは、それから考えればごく自然なことである。
ゆえに、幸村は見た目は冷静に、しかし内面は荒れ狂わせながら、誰にも理解をされることなくただ一人で廊下を歩いていたのだ。恐らく今の幸村は、自分が他人から理解されていないことにすら理解をしていないのだろう。

しかしながら、玖苑というたった一人の女子の裏切りにより、ここまで他人を信頼できなくなったことは多方面から見ても哀れではあった。最初に信じていた女子の裏を偶然に目撃してしまい、悩んだ末に――まさに虐めを解決しようとした瞬間に、真の被害者である仁王が亡くなってしまったのだ。その絶望感というものは計り知れない。最終的に加害者である玖苑までいなくなってしまったために、責める対象すら失った幸村は、いかなるアクションを起こすこともできなくなり、宙ぶらりんのまま、停止することになってしまった。
元来、誰よりも優しくあろうとした幸村は、ここでもまた優しくあろうとした。責める対象を失い、新しいその対象を作る気力すら無くした幸村は、それでもやはり何かを責めたかった。故に、彼はもっとも身近で、やりやすい対象に責めることにしたのである。――すなわち、自分自身を対象にしたのだ。

――俺のせいで、仁王は死んだんだ。俺が悪いんだ。そうだ、俺がちゃんとしなかったから。

仁王を中心としたあの出来事は、当時、中学生だった幸村にとっては大きな事件だったのだ。精神に深い傷を負わされて、さらにその傷を自らの手で抉り続けてもう三年になる。人間不信から救いを求めることなく、まともな人間のふりをし続けていた幸村は、人間を信用する心は持っていなくても、まだ同族意識は持っていた。つまり、幸村は丸井に対して、『同じ仁王関係の事件のせいで傷を負った者』としての同族意識を一方的に抱いていたのだ。
しかし、それは先程の丸井の言葉により粉々に砕かれようとしていた。幸村は、丸井がついに仁王のことを忘れて、新たな一歩を踏み出したのだと考えていた。だから幸村はそれに怒って、混乱をしていたのだ。
だが、上に述べた通り、それは幸村の思い違いであり、盛大なる勘違いである。さらに、これも述べた通りだが、それが正される機会はほぼ有り得ない。つまり、この幸村の暴走が制止されることは不可能に近いとしか言いようがなかった。

「(赤也は――まだ大丈夫だ。“仲間”なんだから、裏切るわけがない)」

さて、ここで唯一の例外、“特定の人物”の存在が現れる。幸村が赤也と呼び、部活仲間でもある男子――切原赤也は、幸村が知る限り唯一の共犯者であった。
共犯者、すなわちあの事件の真相――玖苑が本当の加害者であること――を知り、なおかつ解決できなかった失敗者たちのことを指しているのだが、幸村はそれを頑として仲間と呼び続けていた。
だって、赤也もそうだからだ。幸村の主張はこうである。赤也は俺と同じ秘密を共有していて、さらに解決には踏み込めなかった奴なんだから、当然、俺のように負い目を感じていて、これから先には進めないに決まっている。第一、赤也は俺をいつも否定しない、いい後輩なんだ。その赤也が裏切るわけがない。
矛盾しているその考えに、幸村が疑問を抱いたことはなかった。一様に人間は矛盾を内包しているものである。幸村は自分が誰も信じられないと自覚をしていながらも、赤也だけは特別な存在として信じていたのだ。
そして、丸井の発言により不安定になった幸村にとっては、今や切原だけが心の拠り所であった。それがどんなに危険な状態かなどというのは、言うまでもないだろう。もし、切原が幸村が思う裏切りの行動に出たとしたならば、支えを無くした幸村はたちまち倒れて、立ち上がれなくなってしまうのは確実だった。

そんな、自分がいかに不安定な状態であるかを自覚せず、幸村は階段を上っていた。気がつけば、いつの間にか生徒が普段使用しない教室たちの方へと向かっていた。荒かった足音も先程よりかは落ち着き、今はどちらかと言えば通常よりも大人しい歩みである。

「(――――?)」

階段を上ってすぐ近くの教室を通るとき、幸村は偶然、その教室から人の話し声を聴いた。
そろりそろりとゆっくり歩き、扉が開きっぱなしになっている入口の横から耳を傍立たせた幸村は、目を見開くこととなった。



「(こんな歳になって、未だにラブレターとはのぅ……)」

そう呟いた仁王の手には一枚の手紙が握られていた。学校では古佐直として振る舞っている仁王だが、顔は悪くないことを自覚しているために、別段、驚きはしない。

「(まぁ、変わったラブレターじゃけどな)」

その手紙に書かれていたのは仁王の偽名と時刻、場所の指定。そして『私は貴方の秘密を知っています』という、なかなかに不穏な言葉であった。
仁王がこれを発見したのは今朝の昇降口にいたときである。下駄箱を開けた仁王は、自分の上履きの上にまったくもって可愛らしい手紙が置かれていることを気づいたのだ。その中身を読んだ仁王が一瞬顔をしかめたのは言うまでもないだろう。ただでさえ任務で微妙に忙しいというのに、その上おかしな厄介事なんて勘弁してほしかった。
しかし仁王は結局、その手紙が指定した放課後の空き教室にいた。従う必要もないが、従わない理由もたいしてなかったのだ。そう考えている仁王は、昔から告白というものに常に真摯な態度で挑んでいた。女子と付き合う気などさらさらなかったが、自分の思いを告白するというのがいかに大変なことかというのはよく知っていたからである。
ゆえに仁王はこの手紙も無駄に破棄することなく従っているのだ。もちろん、これがただの告白ではないことくらいは、仁王にも分かってはいるのだが。

「……こんにちは、柳くん」

仁王は“古佐直”の仮面を被って、にこやかに笑った。柳生のように紳士で、幸村のように気立てが良く、白石のように努力家という、良いところばかりを集めたペルソナ。仮面は模造であるが故に、本物の以上の働きを持っている。さらにこの、人を欺くのに最適な人格で、今のところ困るようなことはなかった。だからこそ、最適だと言われる所以なのである。
柳は仁王と同じように、柔らかく微笑んだ。

「ああ、こんにちは。数日ぶりだな」
「そうだね。……柳くんがこれを?」
「その通りだ。しかし残念ながら告白でもないがな」
「それは残念というよりかは、むしろ嬉しいよ」

ははっと“古佐直”は苦笑いをした。しかし、柳は対照的に笑わなかった。
放課後の校内はいつでも静かだ。遠くから、おそらく見回りに来たのであろう、誰かの足音が聴こえてくる。
“古佐直”はそれを気にすることなく口を開いた。

「それにしても――」
「――どうしてこんな物騒なものを書いたのかな……とお前は言う。
 理由はちゃんとあるぞ。単にふざけて書いたわけではないからな」
「……つまり?」
「俺はお前の秘密を、本当に知っているわけだ」
「でも、それに確実性はあるのかい?」
「それは、これから確かめるんだ」

柳はそう言うと、つかつかと黒板に向かい、チョークに手を伸ばした。チョークが黒板に当たる音が静かな教室内に響き渡る。“古佐直”は黙ってその姿を見つづけていた。

「最初はたちの悪い冗談かと思った。だが、そうとは否定できない面が多々あったんでな」
「…………」

I am Hurusa Nao.

時が止まったような気がした。
美しい、としか評価できない英字の羅列が行儀よく揃えられている。一つ一つの区切りまでが恐ろしいほどに正確に測られ、書かれていた。それは訳をするまでもない文章。分かっているのにも関わらず、仁王はそこに立ちすくんでそれを見つめ続けた。

Niou Masaharu

「――こうなんだろう? 古佐……いや、『仁王雅治』」

静かに書き終えると柳は仁王の方に顔を向けた。普段は閉じられている目が開き、こちらに真っ直ぐ視線を向けている。しん、と静まり返った教室は、時計の針が時を刻む音のみを響かせていた。

「ああ、降参じゃ」

柳にそう呼ばれた“古佐直”――否、仁王は両手を上げて、困ったような表情を出した。しかし、その口元は僅かながらも確かに歪んでいる。
仁王は今までずっと被っていた仮面をいとも簡単に捨て落とし、やれやれという風に手を挙げて後ろに並べられている机の上に座った。一見優等生な男子は、先程とは打って変って、かつてよく見られた笑いを顔に貼り付けていた。綺麗だと言われていた背筋すら曲がり、もはや別人と見間違えられるほどである。
柳は急に雰囲気が変わった転入生の様子に僅かに驚いたような表情を見せた。だが、言葉でそれを表現するまでには至らない。

「……なんでそうだと思ったんじゃ?」
「ようやく、本性を現してくれたか」
「はぁ? ――なんじゃ、そんなにあの優等生くんは嫌じゃったんか?」
「嫌ではない。が、お前の仮面は白すぎてむしろ気味が悪いんだ」

柳が吐いた言葉に、仁王はにやりと皮肉げに笑った。

「ほぅ。一応、褒め言葉として受け取っておくぜよ」
「その性格は変わらないな……」

フッと柳は微かに息を漏らすと、また黒板の上にチョークを滑らせた。
仁王は無言でその手の動きを眺める。

「お前が変装していた“古佐直”には、初対面のころから違和感はあった。例えば、目の動きだ。俺の収集癖を知らない者ならば、大抵は初めて俺と出会ったときの行動にパターンがある。だが、古佐には、その俺が記録しているもののどれにも当て嵌まらない行動をした。――すなわち、『視線がほとんどノートへと向かなかった』んだ」
「……それがどうかしたんか?」
「通常ならそれは、俺にある程度慣れている、つまり面識のある者がする行動だ。だが古佐は、俺がノートを所持していることがまるで当然であるかのように振る舞っていた」

黒板には、@視線の動き、と書かれていた。そしてその手は止むことなく、Aという文字を書く。

「『イリュージョンに似ていた』?」
「これはそのままの意味だ。柳生や幸村、時には白石や手塚に似た表情を見せる奴など、俺が知る限りでは仁王しかいなかったからな」
「…………」
「そして、決定打はこれだな」

カッと軽快な音を弾ませて、チョークが黒板を叩く。仁王はまた、そこに刻まれた文字を読んだ。

「……『Bタイミングが良すぎる』」
「ああ。あの不可解な怪物が出現した夜のときもそうだ。俺達の命が危うくなったとき、突然出てきた。しかも言葉の端々には、仕事や義務などといったものがある。これは何かやむを得ない事情から、俺達の身近にいながらも、干渉をそこまでせずにいなければならないということだろう。……だが、俺たちは三年の間にも危険な目には度々遭っていた。にもかかわらず、今まで出てこなかったことを考えると、その仕事はつい最近始まった、あるいは定期的なものであることが考えられる。
 するとちょうど、転入生の存在が妙に浮き彫りにされてしまうわけだ。奇妙な名前、元々俺を知っているかのような行動、テニス部の者たちに既視感を抱かせるような立ち振る舞い。……さらに身長や体重まで同じときたら、どう考えても非科学的な話だが、仁王にしかならなかったんだ」

そもそも俺が幽霊を見たということ自体が非科学的なんだがな、と柳は付け加えた。
するとククッ、と特徴的な笑い声が教室内に響く。

「……さっすが参謀じゃのう。ほんまに恐ろしいヤツじゃき」

仁王は呆れたような笑いを口に含ませながら後ろの頭を掻いた。それに合わせて、黒く染められた髪が揺れる。
一般的なものよりも、ややきつめと評価される目が柳を射抜く。

「で、おまんは何がしたいんじゃ?」
「何が、とは?」
「とぼけるんじゃなか。わざわざ俺の正体を暴くようなことをして、それで知らんぷり、っちゅうわけにはいかんじゃろ」
「いや、ただ俺は知りたかっただけだ。死んだはずの者が、何故ここにいるかをな」
「ほぅ……」

仁王は一言、それだけ言った。
柳はチョークを黒板に置き、こちらを向いた。まじまじと黒髪の義骸に入った仁王の全身を眺める。

「仁王はそれに憑いているのか?」
「いや、コレは元々何も入っとらんし、そもそも何かが入ったことすらないぜよ」
「なるほど、人形か。興味深いな」

言葉通り、柳は興味深そうに言った。そして、同時に傾げた頭には橙色の日が映っている。
いつの間にか太陽は落ちて、もう夕日になりかけていた。淡い橙色が窓から教室を照らしている。仁王はちらりとそれを見てから、何かを言いかけた。しかし言葉として発せられる前に妨害を受けたため、それは未遂で終わってしまった。
突然、何かがぶつかる音が教室の入口付近で響いた。柳と仁王はほぼ同時にそちらに顔を向けた。そして、一方は驚き、一方は無表情で侵入者を見た。

そこには、幸村が立っていた。
どうにもならないものに対する悲しみや、憎しみを混ぜてこちらを睨むその姿は、まるで今にも泣き出しそうな迷子を連想させる。いつからそこにいたのかは分からないが、幸村がこれまでの会話を聞いていたということだけは一目瞭然だった。

「なんで、お前がこんなところにいるんだよ……!」

そして、最後に悲痛な声で自分の名を呼ばれた仁王は、幸村の言葉に眉一つ動かさず、無表情のままに呟いた。

「そんなのは、俺が一番知りたいよ」


お前のことなんて知らない、俺だって苦しいんだから

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