39

「一番恐れていた状況じゃなかった」
「うん」
「でも、そんなにええというわけでもなかった」
「うん」
「みんな、変に勘違いをしとって面白かった」
「うん」
「任務には、支障はないと思う」
「うん」
「そんで……」
「雅治はこれからどうするの?」
「……どうするって、」
「みんなのことがまだ嫌い? 憎い?」
「憎んでなんか――」
「雅治のそれはただの逃避だよ。責任を全部自分に背負わせて、自己憐憫に浸っている」
「…………」
「憎かったんじゃないの? 無実なのに疑われて、身体に大きな支障ができるまでに傷つけられて、悲しいのもあったけど、どこかで恨む気持ちもあったんじゃないの?」
「それは……」
「ねぇ、どうなの仁王雅治」



今日は比較的過ごしやすい日だとテレビに映る気象予報士の男性は言っていた。近年、気象予報士の女性が増えている中で、その男性の存在はかなりの希少価値だ。いつかこの男性も、このテレビから追い出される日がくるのだろうか。そんなことを切原はぼんやりと考えながら食卓に着いていた。適当に焼かれた食パンをくわえながら、リモコンに手を伸ばす。いつも観ている放送局に切り替えれば、はたして、女性の気象予報士が今日の天候について、先程の男性と似たような内容を可愛らしい声で告げていた。
切原は乾燥しているパンを無理矢理口に入れて、一気に手元にあった麦茶を飲む。すると乾ききっていた口内が都合のいいほどすぐに潤う。口に残る麦茶の風味を感じながら、また食パンを齧る。まるで機械のように淡々と朝食を行いながら、切原は段々と意識を覚醒させていった。バラエティーなのかニュースなのかよくわからない賑やかな番組も彼の覚醒を手伝っているのだろう。そしてふと、切原はテレビ画面の左上に映る時刻に視線を向けた。

「――ッやっば……!」

ガシャンと食器をぶつけながら、切原は立ち上がる。バタバタと慌てながら着替えている様子から、どうやら遅刻寸前なのだということが分かった。切原の母親は呆れた声で彼の不祥を注意するも、それは必死に荷物を用意する切原の耳には雑音としてしか届かなかった。

「行ってきますっ!」

ドアを強く閉めて切原は準備運動なしに学校へ向かって走りだした。これから数時間もしない内に、テニスコートの周りを何周も走りながら「まったく"比較的過ごしやすい日"じゃねぇよ」と意味をすり替えて切原がぼやくのはまた別の話である。



朝練に遅刻をして幸村たちに弄られている切原を見ながら、ジャッカル桑原は口から出そうになる溜め息を飲み込んだ。わいわいと賑やかな向こうとは対照的に、こちらのテニスコートはまるで沈黙に包まれている。それもただの沈黙ならまだ心地好いのだが、流れる空気が重油のように黒く濁ってどろどろとしているのだ。もしかしたらこれは桑原だけが感じているのかもしれないが、とりあえず、この空気が好ましいとは全く思えなかった。幸村が出した練習メニューを未だに始められずに、ただじっとコートの端で突っ立っていなければならないのも、これのせいなのだから尚さらだ。
ぎゃあ、と切原のふざけた声が上がる。桑原は隣にいる者が出す空気がまた淀んだのを意識して、今度こそ小さく長く息を吐いた。

「…………」

桑原の隣にいる赤髪の男子、すなわち丸井ブン太こそが、この嫌な空気の元凶であった。何を考えて丸井が桑原の横にいて、しかも切原たちの一挙一動にいらついているのかは分からないが、甚だ桑原にとってはいい迷惑である。嫌だったら離れればいいのに、丸井は一向にここから動く様子は見られなかった。ただずっと不機嫌さを全面に出しながら、桑原の横で切原や幸村たちテニス部員を見ているだけなのである。せっかく早起きをしてまで寒いコートに来ている桑原としては、いい加減にラリーの練習を開始させたかった。
桑原は何か丸井に言おうかとして口を開いたが、結局、校舎に取り付けられている時計を見ることにした。時刻は八時ちょうど。HR開始までには十分な時間がある。

「……なぁ、ジャッカル」

突然、今まで無言を貫いていた丸井が喋り出した。桑原は内心の動揺を静めながらも、正面を向きながらそれに応える。

「ん? なんだ、ブン太」
「……あのさ」
「ん」
「…………」
「なんだよ」

少しだけ荒い口調になってしまった。
とうとう桑原が横を向けば、丸井はなぜか俯いて、土で汚れた自分のスニーカーの先端辺りをじっと見つめていた。

「……、……ごめん」
「――は?」

桑原は思わず唖然としてしまった。平時であっても他人に対して真面目に謝らない丸井が、突然、しおらしい様子で謝罪の言葉を口にしたのだ。生意気でプライドの高い丸井がしょんぼりとしている姿は、もはやタチ悪い何かの冗談とさえ思えてしまう。
今度は抑えられなかった桑原の動揺も無視して、丸井はぽつり、ぽつりと話し出した。

「あの日の、……あいつが出てきたときからさ、」
「仁王のことか?」
「……おう。それで俺、考えたんだよ。本当にこのままでいいのかって」
「ブン太……」

桑原は目を開いた。
隣のコートではすでに軽いラリーが始まっていた。球が打たれる軽快なインパクト音がこちらまで聴こえてくる。丸井は目を細めてしばらくの間、ガムを膨らませずに口の中で弄んでいた。

「――だって、どう見ても今の状況はおかしいだろぃ? 俺だって、おかしかった。あいつに……仁王に、裏切られて逃げられたんだと思い込んで、勝手に傷ついてた。
 ……でも、あの日、幻みたいに仁王が出てきて、俺たちに向かって言った言葉で、俺の考えがおかしいって、気づいて……」
「…………」
「あんときの仁王が幻覚なのか何なのかは、俺には分かんないけど、とりあえず、すげぇ悔しいんだよ。仁王がいなくなったのに当たり前みたいに生きてることも、逃避していた自分にも悔しくてムカツク。だから、次に仁王に会ったら、絶対に殴ってもらうんだ」
「ブン太……」
「なんだよぃ。ジャッカルのくせに、何回も俺の名前を呼びやがって」

丸井はこちらに顔を向けて不機嫌そうに、昔と同じ雰囲気でそう言った。もちろん、それが本気でないことは桑原には分かっていた。だからこそ素朴ながらも、不可解だった疑問を口にする。

「なんでさっき、あんなにイラついてたんだ?」
「ん、ハラ減ってたから」

変わったけれども、変わらない友人のふざけた答えに、桑原は泣き出しそうな表情で笑った。丸井も友人のそんな姿に釣られるように、小さく照れた笑いをした。
幸村がこちらに向かって早く練習メニューをこなすように注意している。桑原と丸井は互いに顔を見て、笑みを浮かべながら、真田の怒鳴り声が響く前に駆け足で持ち場へと向かった。



「そういえば真田、前に転入生の話題が出たときがあったよね?」
「うむ。それがどうかしたのか?」
「いや、大したことじゃないんだけどさ。たまたま昼休みに、その、噂の転入生を見かけたんだよ。そしたらさ、」

なんか、どこかで会ったことがあるような気がしたんだよなぁ。
朝練が終わって部室で着替えている途中に、幸村はぽつりとそう言った。同じくその隣で着替えている途中だった真田は、その手を止めて、しばらく幸村をじっと見つめた。そして、何事もなかったかのように正面を向いてから、「たまにはそういうこともあるだろう」と言うと、また着替えを再開させた。

「これがデジャヴュってやつかな」

真田の愛想のない返事を気にすることなく、幸村はネクタイを結びながら、面白くとも何ともないにも関わらずクスリと愉快そうに言った。真田はそんな幸村の様子に何も言うことなく、淡々と着替えていた。

「既視感は、未体験のことを、あたかも体験したかのように感じることだからな。おおかた、夢か何かで同じような人物に会った記憶を、現実のものだと錯覚したのだろう」

たまたま背後に立っていた柳が、ノートを片手にしながら、話を結論させるようにきっぱりと言った。ノートの表紙から察するに、どうやら今朝の練習について書いていたのだろう。

「ふぅん。じゃあ、あれはただの気のせいか」
「……"あれは"?」
「いや……本当に不思議なんだけどさ、一瞬、仁王に錯覚――」

そこまで言ってから、ハッとした表情で幸村は慌てて丸井のほうを向いた。しかし丸井は幸村たちの予想とは違い、いたって平常な様子でジャージをロッカーに詰めていた。丸井は幸村たちの考えが分かっているかのように小さく笑った。

「もういいんだよぃ」

それが何を意味しているかは、ここにいる彼らには十分に分かっていた。和やかな、皆が安堵したような空気が部室内に流れる。しかし幸村だけは、だからこそ、その丸井の姿を見て眉をひそめた。そして不審げな表情のまま、その口が開く。

「ブン太は――、」
「よかったな丸井。ようやく吹っ切れることができたのか」

幸村の言葉を遮るように、真田は丸井に向かってしごく安定した声音でそう言った。
真田の言葉を聞いて、丸井は悪戯がばれた子供のように笑った。

「おう。まぁ、吹っ切れたっていうか、考え方の視点を変えただけだけどな」

その一瞬、幸村はまるで丸井を憎むかのような目で睨んでいた。それは明らかに仲間を見るような目つきではない、もはや敵と見なしたかのようなものであった。
しかしながら幸か不幸か、幸村の不審な表情に気づいたものはいないようだった。あの柳ですら気づいてはいなかったのだ。まさか幸村が丸井に対して批判的な考えを抱くなどとは、全く思っていなかったのだろう。
ところがただ一人、切原だけは悩ましげな顔をして、「今日はまったく過ごしやすい日じゃねぇ」と小さく呟きながら、制服のボタンを留めていた。窓から覗く天気は曇り。気象予報士が言ったような、比較的過ごしやすい日だとは断言できないものだった。


どうして逃げるの? 俺はこんなに苦しんでいるというのに


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