37

仁王は瞬歩で、とある家の前にそっと現れた。新築とは言いがたい外装をしているその家は、かつて仁王が安心できた場所であり、誰かと別れた場所でもあった。時にはそこで友人と遊んだり、悩んだりしたこともあった。他にも、好きだったテニスや、嫌いだったモノたち。大切だった何かや忘れたかった懐かしい過去が、思い出そうとしなくても次から次へと流れるように溢れてくる。
その家を囲む庭は、今は深夜の静けさに包まれている。生える草木は昔から変わらず綺麗に手入れされており、住居人の性格を表しているようだった。仁王はただ、無言で表札を一瞥すると、両手に抱く眠る人間と共に目の前にある家の門を通ろうとした――そのとき、

「帰宅するときは無言でいいと、教育した覚えはないぞ」
「…………」

一体、いつから居たのだろうか。まさに今、仁王が入ろうとした家のベランダに、一人の男性が柵に寄り掛かりながらこちらを見下げていた。ラフな髪型や私服が、その男性に嫌に似合っている。
ゆっくりと顔を上げた仁王と、その男性の視線が数秒間絡む。
しばらくの沈黙ののち、父さん、と仁王は小さく呟いた。もちろん、その言葉の意味は文字通り仁王の父親を示しているのだろう。“父さん”と呼ばれた男性は、知る人なら同じだと言うような、とある詐欺師に似た笑みを顔に浮かべた。



約三年ぶりの帰宅は呆気ないものだった。
父親に無理やり連れ込まれて、無言で久々に入った自宅は外装と変わらず、昔のままの雰囲気を残していた。少なくとも、仁王が知る限りでは大きく変わっていないように見えた。それが故意にせよ、そうでないにせよ、緊張していた仁王の心に淡い安心感が涌いて出たのは確かである。
仁王は出されたお茶を手に持ちながらリビングの椅子に座っていた。父親は自分が運んできた姉と弟をわざわざ部屋に寝かせに二階に行っていた。ちょっと待っていろと言われて熱いお茶を渡されたが、何かをして時間を潰す気分にもなれなかったために、仁王はゆらゆらと湯気が空気に溶ける様子を、無言でぼうと眺め続けていた。
階段を降りる音がして、少ししてから父親が顔を出した。

「待たせたな。いやに眠そうだが大丈夫か?」
「……別に、なんとも」

いたって平常な態度を身に纏い、父親はリビングに入ってきた。ドアから入ってきてすぐに顔が見える位置に座る仁王は、父親からの視線から逃げるように顔をふいと逸らした。父親はそれを見て、しごく面白そうに笑いながら仁王の正面にある椅子に座った。

方言を喋る仁王とは対照的に、標準語を喋る父親――仁王宏治は、元は地方の生まれだった。子供たちが幼い頃から家族を地元に残して東京で働いていた彼は、仁王が小学生5年生になる直前に、家族をこの神奈川に呼んだのだ。
「憧れの一軒家を作ってみたぞ」そう言って、笑いながら周りを驚かせた父親は、仁王が知るかぎりは昔からずっと自由な人だった。そして、そんな父親に対して仁王は密かに憧れを抱き、父親の職業である建築家に興味を持っていたのだ。
もちろん、そんなことは誰にも語ったことはないし、これから先も言うつもりはない。仁王の胸の内にずっと、ひっそりと留めて大切に守るのだ。

「じゃあ、まずはあれだな。なぜ俺が雅治を見えているかについて言おうか」
「……あ、」

すっかり忘れていたことだったが、仁王はいま魂魄の状態なのだ。先程の立海は例外だが、普通の人間ならば見えるはずがないのである。そして仁王宏治は、仁王が知る限りそこまで霊力があるほうではなかったはずだ。
仁王宏治は、そんな仁王の考えが分かっているかのように、また口端を上げて笑っていた。そして、さらりと理由を言う。

「簡単に言えば、もともと死神は見えている」
「――え?」
「霊力が高くなさそうにしていただけだ。死神や幽霊が見えていたって全く意味はないだろう? 下手に目は付けられたくないしな。まぁ、それでも偽ったって、普通ならば虚は寄ってくるが」
「じゃあなんで……」
「いままで俺を含めて、家族が無事だったかって?
 それは昔、虚に襲われてしまったときに、一心っていう死神から命を救われてな。その時に、虚を寄せつけない効果があるというお守り幾つかを貰ったからだ。そのお守りを持っている間は、死神や幽霊が見えるだけの安全な一般人になることができる」
「そうなんか……」

仁王宏治はポケットからそのお守りらしきものを出すと、紐を持ってゆらゆらと揺らした。
「ちなみにここは土地がいいからお守りを持ってなくても安全だ」と言って、仁王宏治はお守りを指で弄りながら、心なしか語調を下げて話を続ける。

「でも、雅治や、ほかの子供たちも霊力が高く生まれたのは本当に後悔してな……。いくら安全とは言え、幽霊なんて見えても普通に生きていく上ではまったくメリットなんてない。久々に自分の力を怨んだな。どうしてこんなのを持って生まれてしまったんだろう、って」
「…………」
「それでも、いままで虚に襲われなかったのが唯一の幸いだった」
「…………」

父親の話を聞きながら、仁王は弄られているお守りを眺めていた。
だからいままで虚に遭遇することも、襲われることもなかったのかと納得する。確かに言われてみれば、幼い頃からお守りをいつも持ち歩かされていたような気がする。

親の見えなかった心を垣間見て、仁王は感動なのか嬉しさなのか、よく分からない感情が胸に湧き出てきた。だが、成長した我が子を優しい目つきで見ながら話す父親に対して、なにも言うことができなかった。
しばらくしてまた沈黙が下りる。お喋りだったはずの父親も、仁王と一緒にいれるだけで嬉しいのだろうか、必要なことを語ったあとは、何も言わずに頬杖をついて、口元を緩めながら仁王の姿を眺めていた。
とうとう仁王はお茶を一口飲むと、自ら沈黙を破った。

「――……父さん、すまん」
「何がだ?」
「その、勝手に死んだりとかして、」
「ちょっと待った」

ぽつりぽつりと出される仁王の声を遮るように、仁王宏治はそう言った。仁王は思わず、怪訝な表情をして父親を見た。
そんな視線を気にすることなく、養育者である男は真面目な顔つきで一言。

「その前に、帰宅したらまず言うことは?」
「――……ただいま」
「あぁ。おかえり、雅治」

ここで三年ぶりに、ようやく本当の意味で帰宅することができたのだと、仁王は口にしてから理解した。

――あの冬、あの寒い日に背後で閉まった扉を、また開くまでの道のりはとても長く大変だった。

じわりと滲む視界を目を瞑って腕に隠して、必死で気づかなかったことにする。
声を噛み殺して泣き出す息子を前に、仁王宏治は先程までのにやにや笑いとは一変して、父親らしい、優しい笑みを顔に浮かべた。
月明かりが照らす夜、冷めつつあるお茶はまだ、仄かな温もりを持っていた。



幾日が経ったある昼休み、仁王は委員会の仕事のために図書室にいた。
カウンターの椅子に座り、どこかの棚から持ち出した本を読む。嫌々ながらこの役職に着いた仁王だったが、別段、読書は嫌いではなかった。むしろ、気に入っている本もいくらかあることを考えれば、好きだと言ってもいいのだろう。
パタン、とカウンターに本が置かれた音で仁王は我に返った。どうやら、いつの間にか読書に集中してしまったらしい。顔を上げればそこには、ここの常連である柳が数冊の本と共に目の前で立っていた。

「全部借りさせてもらうぞ」
「わかった」

仁王は淡々と渡された本の貸出を記録する。柳もまた、その動作を何も言わずに見ていた。図書室の雰囲気と相まって、心地よい沈黙が両者の間に流れていた。
しかし、仁王が最後の一冊に手を掛けたとき、何かを思い出したように柳が口を開き、その沈黙を破った。

「ああ、そう言えば、古佐に一つ聞きたいことがあるんだが」
「いいけど。なにかな?」

仁王は比較的に優しい笑みを浮かべて、話の続きを促した。まさかこんなところで、この柳が変なことを言うはずがないだろう。そんな、過信ではない確信じみた考えを抱きながら。

「――もし、もう二度と再会することがないと思っていた者とまた出会えて、しかし、その者から一生掛かっても解決できないほどに憎まれていたら……お前なら、どうする?」

その、まさかの内容だった。
普段は閉じられている双眸が、こちらをはっきりと射貫く。仁王は内心の動揺を隠すように顎に手を置いて、悩むようにゆっくりと答えた。

「うーん……難しい質問だな。でも、そうだなぁ……。俺だったら『なるべく干渉しないようにする』と思う」
「……ほぅ」

仁王が理由を言わずにそれだけ告げると、柳は何故か興味深げに一言呟いて、手に持つノートに何かをさらさらと書き加えた。
まるで意図が分からない行動に、“古佐直”は怪訝な顔をしてそれを見る。

「またデータ? 俺の情報なんて大した意味はないと思うんだけど」
「いや、今のは貴重なデータだった。ありがとう、参考にさせてもらうぞ古佐」
「……?」

首を傾げる仁王を置いて、柳は本を片手にすたすたと図書室から出て行った。

「(なんだったんじゃ……アイツ)」

あの手の動きだけ見ても、彼が何を書いたかはまったく分からなかった。情報収集が好きだという柳は昔から理解不能であったが、頭は賢いだけにまさかあの行動が無意味なわけではないだろう。
もしかして――と、仁王はある仮説を脳内で組み立てかかった。しかし、頭を振ってそれを崩した。いや、それはありえないだろう。一番可能性が高いのは柳だが、一番それから遠いのも柳なのだ。少なくとも、あれが仁王の知る柳のままだったなら、そうであるはずだった。
ほどなくして、チャイムが昼休みの終了五分前になったことを知らせる。仁王は司書に挨拶をすると、先程まで読んでいた本を手にして、自分の教室に向かった。

――まさかあの柳が、答えに辿り着くとは到底思えない。

それが現時点での、遊び好きな詐欺師の楽観的な考えだった。唯一のゲームをこんなに早く終わらせる気は全くない。むしろ、終わらせたくもなかったのだ。
そして、ふと、柳の質問が頭の中で響く。
“古佐直”であったら、あの答えを出して当然だったはずだ。
――ならば、自分は?
もしあれを直接聞かれたら、自分は何と答えたのだろうか。

俺は憎んでもないんじゃけどな、と口から漏れそうになる苦笑を抑えて、仁王は考えた。仮に、仲間からまだ誤解されて憎まれていて、昨日のようにまた再会したとしたら。そうなったら自分は一体どうするのだろうか。
視線を上げれば窓から屋上がはっきりと見える。綺麗な青空を背景に、かつて命を終わらせた場所は、ただ静かに光を反射して建っていた。

――唇を噛んで、見なかったことにして、それで、ここからの逃避ができるわけがないというのに。
仁王は窓から顔を逸らすように俯いて、教室へと向かう脚を早めた。生産性のないただの空想なんて、時間の無駄だと自分に言い聞かせながら。


現実仮装に問い掛ける

prev top next

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -