35

翌日の朝、仁王は立海にいた。
確かに身内のことは心配だったが、それ以上にいま大切なのは任務なのだ。それに、霊力が高い者が狙われるのならば、立海の生徒にもあのマーキングが付く可能性が多いにある。任務をこなすほうが、仁王個人の自由で動くよりも堅実的なのは明らかだった。
ざわざわと騒がしい校内を歩く。黒く染められた髪がさらりと揺れた。生徒たちの間を通るたびに小さな囁きが生まれるが、仁王は気にせず歩き続けた。こういうのは昔からのことで、もう慣れてしまった。潰されていない、まだ綺麗な上履きに違和感を抱く。以前は踵を踏んで、時にはぺたぺたと音を立てて歩いていたが、今は四六時中柳生に変装しているように、ひどく生真面目を装っている。踵を踏むのはおろか、歩く背筋すら伸ばしているのだ。我ながら少しやりすぎたように感じられるが、いまさらどうすることもできないので僅かに後悔した。
開け放されていた教室のドアを潜れば、女子たちの熱っぽい視線や、男子からの挨拶をかけられた。仁王はそれを軽くかわして、適当に挨拶を返しつつ丸井の席に目を向けた。相変わらず丸井は机の上に伏せって、顔を腕の中に埋めている。
髪の隙間から見えた首には、例の資料と同じ形をした傷が付いていた。



もし起こるならば、今日か明日の夜だ。
丸井の首筋を見て、仁王はそう確信した。
テニスのレギュラーたちを全て確認したわけではないが、こんなに霊力がある者たちを虚が長い間放っておきはしないだろう。目をつけたならば、すぐにでも捕食したいはずだ。

春の夜はまだ少し寒い。仁王は息を吐いて、鞘に納めてある斬魄刀を握った。手が少し冷えてしまったが、討伐には差し障りないだろう。もっと寒い、冬の雪の中で戦ったこともあるのだから、この気温で不利だとは言えない。むしろ、仁王には都合がよかった。
仁王は立海の屋上にいた。もし、一気に喰らうような悪質な虚ならば、こういう広い場所に現れるはずだ。仮説にすぎないが、例え場所が間違っていても、この高さなら見渡すことができるし、すぐに移動ができる。好都合なことには違いない。屋上にはあまりいい思い出がなかったが、任務のためならば我慢するしかなかった。
空を仰げば、星がちらほらまたたいていた。星の光がここに届くには、ゆうに数千年はかかるという話を聞いたことがある。数千前の世界なんてまったく想像できない。そこには、虚はいたのだろうか。そもそも、霊というもの自体が存在していたのだろうか。
また斬魄刀を握り直す。カチャリという金属音が仁王の耳に届いた。

本当に、あいつらを助けるんか――?

屋上のフェンス際に佇む、中等部の制服を着た仁王が、ぽつりとそう問い掛けてきた。今にも泣きそうな表情をして、自分と変わらない背丈の仁王がこちらを睨む。
本当に彼らをお前は助けられるんか? 死神の仕事だからと言って、割り切ってできるんか? ――大切なテニスを奪いかけたあいつらを。
仁王はただ、無言で斬魄刀を握り絞め続けた。
風もなく、フェンスがぎしりと叫ぶように鳴いた。



眠りに落ちるとき特有の、曖昧な感覚が身体を襲う。
見覚えのある映像が目の前で流れる。
ああ、これは――……。


「朝の練習は終わり! 遅刻しないように急いでね」

心地好いアルトの声がテニスコートに響く。はい! とあちこちから元気のいい声が上がった。
真田はそれを聞いて、肩に入っていた力を僅かに抜いた。立海の無敗という掟こそ、以前と比べれば緩くはなったのだが、常勝立海の名を捨ててはいない。ここにいるものは皆、テニスで強くなるために立海に入学しているのであって、勝ち負けがどうでもいいわけがないのだ。だから、朝練だって手を抜く者はいない。真剣に取り組み、貪欲に勝利を求めているのだ。……一部の例外はいるが、あれはあれで実力があるため何とも言いがたい。
真田の横にいた幸村は、部員たちの反応に満足したのか、部室へと脚を向けた。昔から変わらず肩に掛けられたジャージが、風に吹かれてふわりと揺れる。
真田は、何となしにその後ろ姿を眺めて、一瞬、何かを見つけた。

「……幸村、その怪我はどうした」
「怪我?」
「首筋に引っ掻いたような跡があるぞ。昨日はなかったはずだが」
「……寝ぼけてやっちゃったのかな。言われるまで気づかなかったよ」

あっけらかんとそう言う幸村。本人すら気づかないほどの傷ならば、大したことはないのだろう。だが、大事を取って消毒するように真田が勧めたら、「真田は相変わらず過保護だね」と眉を下げて、困ったように幸村は笑った。
真田はその表情を見て、大人しく口をつぐんだ。


――そうだ、これは今朝に交わした会話だったはずだ。

思い出すと同時に、ゆっくりと瞼を開けた。何故か妙に床が痛い。確認するように手を動かしてすぐに、真田は自分が地面の上に寝そべっているとわかった。
一体、いつの間に眠ってしまったのだろうか。制服を着たままということはまだ帰宅はしていなかったということなのか。何故か記憶が霧がかかったように曖昧で、ここにいる理由を全く思い出せなかった。

ひとまず状況を確認するため、真田は左右を見渡した。どう見てもこの景色は自分の学校である立海の校庭にしか思えない。そして数メートル間隔で、自分と同じように地面に倒れている人たちの存在に気づいた。
自分を含めて約十人ほど、知らない女性や男の子もいたが、テニス部レギュラーは全員倒れていた。しかも、それは中学生のときの面子だ。なぜだかその偶然に、嫌な予感が真田の頭をよぎった。

「おい、起きんか」

とりあえず、近くにいた切原の肩を揺さぶる。
切原は寝ぼけているのか、よくわからない言葉を二、三言むにゃむにゃと口にした。

「あとじゅっぷん……」
「……たるんどる!」
「――ッ!? おい誰だよ叩いたや……つ……。……うわ、真田副部長……!」

尻を押さえた切原が、明らかに焦ったような顔をしてこちらを見た。そしてすぐに、ここが校庭だとわかると、今の状況を把握しようとする。

「とりあえず、全員起こしたほうがいいっスよね」
「ああ、そうだな」
「センパーイ、起きてくださーい」

切原が丸井や柳に声をかける。真田も近くに寝ていた柳生を起こそうと、手で肩を触れようとしたそのとき、

――大漁、大漁。良え獲物がたくさんおるわ。

いきなり、目の前に『何か』が現れた。
『何か』としか言い表せないそれは、もっと幼稚に表現すれば、怪物だとか、化け物だとか、そういう言葉を当て嵌めることもできる。しかし、とにかくそれは真田にとって『何か』と表現するしかなかった。
その『何か』は、例えるならば蝙蝠。口らしきものから覗く牙は、魂魄の捕食をするために出来ている。さながらそれは、中世の吸血鬼を真田に連想させた。ニタリと嫌な笑みをうかべる『何か』は、異形な見た目で、異常な物を主食とする。地面に倒れる餌を見下ろす姿は、確かに弱者を襲う捕食者だった。

異様な気配のおかげなのか、気がついたら寝ていた者たちは皆、顔を上げて『何か』に視線を向けていた。もちろん、それを見たところで何が起こるわけでもない。強いて言うならば、自分か他人の死を目にすることができるだけだろう。
怯える者や、茫然とする者。獲物たちの視線を向けられた『何か』は、嬉しそうに身体を震わせた。

「最高やのぅ。ワシを見れるモノがこんなにもたくさんおる」

気持ち悪い笑みがこちらに近づいてくる。
その口からは、涎がポタポタと滴り落ちていた。
ここで自分たちの命は終わる。
そう確信して、真田は歯を食いしばった。
――そして、



「……調子に乗るんじゃなか。ただの虚風情が」

懐かしい声が耳に届く。
冷たい風と共に、銀髪がさらりと煌めいた。

「仁王……先輩……」

切原の声だけが、ぽつりと広い校庭に響き渡った。


回避とエスケープ

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