少年Yの逃亡。

辺りは闇。
右も左も、上も下も全く分からない。自分という感覚さえ曖昧な世界。


「――例えばさ、こういうのはどう?」

「『もしも、自分に過去に戻れる力があったら?』」

「『過去に戻って、やり直せる力があったら?』」

「『そして以前の過去をなかったことにできたら?』」

「君なら―――どうする?」

人を小馬鹿にするように、艶やかで綺麗な顔を歪めるそいつは、まさしくあいつ本人だった。
銀色に煌めく髪はいくら目を逸らしても視界に入りこんできて、逃げても、逃げても、追いかけてくる。暗闇は自分という認識すらできないのに、確かにあいつの存在ははっきりと知覚できていた。何故、と呟く口も、存在する前に霧散する。

あの日、俺は知ったんだ。本当に悪いのはあいつじゃなくて、玖苑だと知ってたんだ。だから、俺は責められる筋合いはない。
止める前に*んだのは、あいつ。ミーティング中に部室を飛び出した赤也は、あいつを勝手に止めに行った。動けなかった俺。みんな茫然としていたから、悪いのはみんな。だって、まさか*ぬなんて誰が予想できた? 今まで生きていたあいつが今日*ぬなんてどうやって考えろっていうんだ? 入院していた頃、俺は*ぬのが怖くて、怖くて、堪らなかったのに。テニスがもう二度と出来なくなるなんて、絶望しかないのに。
じゃあ、仁王はテニスが出来ない身体になっていた――?

屋上に行った赤也は泣いていた。あいつは、人混みに囲まれていた。救急車の音がだんだん大きくなって、俺に向かってぶつかってくる。人の不安を煽るあのサイレンは、どんどんこの学校を現実から切り離していった。ピーポー、ピーポー。警察は呼ぶのか、と誰かが叫んだ。あいつは人混みにまだ囲まれていた。人間の脚が沢山蠢いて、一つの生き物として集まり固まる。どんどん、どんどん増えてざわめきが大きくなる。視線を巡らせれば、赤い何かがたらり、と垂れた。
いわゆるそれは、死の象徴。

視界が滲んで、歪んでいく。固体が崩れて、形を失っていく。蠢きの隙間から銀色が煌めいて、俺の狭い世界に入り込んできた。聞き慣れた声が辺りに響く。聞き慣れた、というのも、もしかしたら嘘。俺の頭部にあるタンパク質の固まりが都合よい解釈を生み出して、安心しているだけなのかもしれない。曖昧な世界はぐるぐると回っていく。自分すら信頼できない。何が正しくて、何が偽りなのか。おかしいのは誰なのか。目を閉じる。耳を塞いだ。なのに、色は、音は、俺を圧迫して押し潰してくる。誰かの叫び声がどこかで上がる。

もう、嫌だ。何も聴きたくない。何も見たくない。五感なんていらない。だから、だから、誰か、俺をここから逃がしてくれ――。
逃げられるわけ、ないのにね。


―――ブラックアウト。

そしてまた、何もない暗闇の世界に戻る。

「お前さんが、俺をこうしたんじゃよ」

「『もう二度と笑えない』」

「『もう二度と考えられない』」

「『もう二度と、テニスができない身体にな――!』」

あいつの笑い声が世界に響く。煌めく銀色は逃げても逃げても追いかけてくる。助けて、と呟いた口は、いったい誰のものだったか。



「――ッ! は、はぁ……はぁ……、はぁ……」

そして今日もまた、何もない明るい朝がやってくるのだ。


偽り幸福日常世界

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