libro
今年の春、小生の妊娠が発覚した。
前回の二の舞は踏まんと、腹が目立つようになる頃には、大事を取って産休代わりにと仕事を辞めちまったんだが、これがいけなかった。
暇。
恐ろしく暇。
退屈すぎて死ぬ。
なんて思ったのが数日前。
「ただいまー」
「おー、お帰り」
「はい、これ」
帰宅早々の半兵衛から手渡されたのは少々厚めの新書サイズの本。
深緑の表紙に金の箔押しのタイトルが何とも良い雰囲気で興味を掻き立てられる。
「暇つぶしに丁度良いと思うよ」
「ありが…」
純粋に口をついたお礼の言葉が止まる。
あれ?半兵衛の前で暇って言ったっけか。
ばっ、と振り向くとネクタイを緩め、新聞に手を伸ばしていた半兵衛は涼しい顔で、何?それ読んだことあるやつだった?なんて聞いてきた。
やっぱり小生は言ってない。
その自信も芽生えたが、半兵衛が確信犯な自信もまた同時に湧いた。
「…いや、ない。ありがとう。」
小生はこいつと出会ってから諦めることが上手くなったと思う。
まあ、半兵衛の異常なスペックの高さは置いといて、暇潰しの種ができたのはありがたい。
読書という選択肢は暇を感じ始めた当初から頭にはあった。
だが我が家には意外と本がない。
二人とも読書家だが、いや、読書家なので本は専ら図書館頼りだ。
そうでもしないと財布と床への打撃が半端ないことになる。(ただし実家はこれに当てはまらない。)
僅かにあるものは勿論お気に入りの部類だが、いかんせん表紙を見れば内容を語れるくらいには読み込んであって暇潰しには適さない。
図書館に行こうにも、家から図書館まではそこそこ距離がある。
小生はいわゆる不運気質。
ただでさえ「何故じゃー」が口癖になるほどなのだ。
身重の今、下手に動いて、それこそ転んだりして、前回と同じ思いをする可能性を考えたらどうしてもそこまで足を運ぶ気にはなれなかった。
もしかしなくても気を遣われたんだろうな。
持ち前の優れた頭で臆病になるこちらの事情を抜け目なく拾って。
これが他人の下手な気遣いなら反発心も起こるんだろうが、そんなものより嬉しさが勝るのは、こいつの優しさが小生が意地を張る隙がないほどそつがないからだけではないのだろう。
手の中の本をぱらぱらと捲る。
内容とかそれ以前のことに引っ掛かり、一旦本を閉じた。
「…なあ、半兵衛」
半兵衛は、何?と新聞をたたみながら返してくる。
もう読みおわったのか、相変わらず早いな。
なんてことが言いたいんじゃなくて。
「これ……何語だ…?」
「イタリア語だよ」
共についてきたのは、え?分かるでしょ?という絵に描いたような疑問を浮かべた顔。
分かる。
仮にも語学は得意な分野、これがイタリア語だってことは小生にも分かる。
だがさすがに無理だ。
日常会話くらいならともかく、詳しく学んだ訳でもない言語で専門書は無理だ。
この際日本語とは言わん。
せめて小生の専攻してた英語かドイツ語にしろよ。
大学時代にはもう付き合ってたんだし、同じ大学出身なんだから小生の専門分野くらい分かるだろうが。
お前の頭なら。
…お前の頭でなくとも。
「あ、そうだこれ。一応渡しとくよ。伊日辞書が入ってるやつだから」
反射的に出した手にぽんっと乗せられたのは電子辞書。
「官兵衛なら大丈夫!」
屈託のない綺麗な笑みに、先ほど浮かんだ柔らかい気持ちは姿を消した。
「……だ。」
「ん?何だい?」
「お前さんとは頭のできが違うんだよ!学年首席ぃー!!」
しかし、小生の必死の反論など半兵衛に通じる訳もない。
「こらこら、急に叫ばない。安静にしないと」
「っ誰のせいだと!」
「それに、言っとくけど」
こっちの主張は意に介しないといった風に平然と言葉は続いた。
「それ宿題だから。語り合えるのを楽しみにしてるよ」
「何故じゃ―――!!」
半兵衛のチートな頭も、隙がないところも、人の話を聞かないのももう慣れた。
ただ一つだけ言わせてくれ。
こいつを理解できる日はきっとこねぇ。