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『官兵衛が病院に運ばれた。』

僕の記憶では確か彼女は妊娠8ヶ月目。
会社で受け取った電話の予想もしなかった内容に血の気が引いた。
ふらつく僕を秀吉が分娩室の前まで運んでくれたのだけれど、それからどれだけ経ったのか。
頭を埋め尽くす言い様もない不安に時間感覚すら吹っ飛んだみたいだ。

それにしても、なんてもどかしいんだろう。

彼女が扉の向こうで命をかけて戦っているこの刹那、何一つ出来ないなんて。


今まで出来ることは全てやってきたつもりだった。
かなり協力的な夫の部類だと、『自称』を付けなくても言える自信すらあった。
それが自惚れだと気付いたのは今さら。
この無力感ともどかしさを噛みしめ、今はただただひたすらに官兵衛の無事を願う。

握り締めすぎて強ばる手のひらの熱に気付き、少しだけ我に返った。



扉が開く。
僕の目が官兵衛の姿を捉えた瞬間、そのもとに駆け寄った。
とりあえず、彼女が無事だったことに、ほっと胸を撫で下ろす。
部屋の中では何だかよくわからない専門用語が飛び交う。


産声は
聞こえない。


「……ん」

騒然とした中から官兵衛が発した微かな声を広い、どうしたの、と問い掛ける。


「すま…ん、また…、ちゃんと…産んで…やれ……なかっ……」


潤んだ目もとと小さな声で吐き出される痛々しいまでの謝罪の言葉が鋭く胸を裂いた。

三年前の決して古くはない記憶、この世界を仰げなかった一つの小さい女の子の命が頭をよぎる。

大丈夫だから。
君が馬鹿みたいに真面目に向き合ってたことは、頑張ってたことは、僕が一番よく知ってるから。
大丈夫、絶対大丈夫。
再び込み上げた不安を押し殺すように、何の根拠もない確信を何度も何度も頭の中で反芻させる。

その時ふと掠めた官兵衛の手。
その冷たさがその内に抱える恐ろしいほどの不安を表すようで、無意識のうちに強く握りしめていた。

不安は消えない。
僕ですらそうなんだ。
8ヶ月、それを抱えてた官兵衛はどれほどだろう。

今、僕が出来ること。
やっと見つけた。


「お疲れ様」


僕の内から溢れるとめどない涙とただ一言、ささやかな労りの言葉を君に。


緩やかにほぐれる固かった表情。
少し青白かった頬にも生気が戻り大粒の涙が伝う。
次に続く嗚咽は僕の胸で受けとめた。





この嗚咽が止まるころ響いた眩しい産声に僕らはくしゃくしゃの笑顔を交わした。





しばらくして、連れてこられたのはたくさん並んだ保育器のうちの一つ。
その中では小さな小さな一つの命が生を求めて必死に息をしていた。

「名前、考えなきゃだね。」

それはそれは素敵な名前を。
僕と彼女と君のお姉ちゃんと、三人分の祈りにも似た想いを込めて。

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