overture
いつもなら聞こえてくるはずの音が聞こえない。いつも通りじゃないと不安になるのは並の人間なら仕方ないだろう。我もただの人という話だ。して、あやつはどうしたのだ。
この時間なら朝食作りに勤しんでいるはずの台所には作りかけの朝食と我の弁当、そして開きっぱなしの炊飯ジャー。ふむ今日の朝食は厚焼き卵と柳葉魚か。良い献立ぞ。弁当はシュウマイと野菜炒めと焼き鮭とはまた楽しみだな。いやいや、そんなことは良いのだ。せめてガスは切れ、蓋は閉めよ。そんなことも出来ない程の何かがあやつの身に起きたのか。
途端、トイレから水の流れる音がした。そして顔色の悪い元親が怠そうに戻って来た。
「あ゛あー…キツー…」
「何があったのだ」
「あ、ああ元就はよ。いや、アレだアレ」
「おはよう。で、アレとはなんだ」
指示語で言われても我には分からぬ。なんのことなのだ。元親の泳ぐ視線を捕らえて問いただす。
「悪阻」
「ああ悪阻か…、えっ?」
「たまに重いの来るんだよなー」
「は?少々待て、待つのだ」
頭がついて行かぬぞ。目の前にいるこやつはなんと言った。悪阻だと。何故だ。妊娠したからだ。いや、そこまでは分かる。何故だ。我は聞いておらぬぞ!
「…あれ言ってなかったっけ?」
「初耳ぞ」
元親は我に既に伝えたつもりで居たらしい。そんな馬鹿な。本当にこやつは救いようのない奴ぞ。
「今13週目」
「うむ」
「俺、今日は悪阻酷いの」
「うむ」
「弁当の白飯は自分でやれよ。それから朝食もだ」
「む…仕方ない。貴様は大人しくしておれ」
「さーんきゅ。俺、今日は講義ないから寝てるな」
無理して笑うでない。とろとろ歩く元親を支えてベッドへ連れて行く。昔もよくこうしたものだ。学校で体調を悪くしては我が負ぶって保健室へ連れて行った。懐かしい。
「おやすみ元親」
「…おぅ」
元親に布団をかけて寝室から出ようとしたその時、シャツを引っ張られた。振り向けば唇を噛み締め眉間に皺を寄せた元親が何か言いたそうに我を見据えている。
「なんぞ」
「…てめぇは嫌か?」
なにが、なんて聞ける訳もない。
「…次の休み、共に実家に戻ろう」
「は?」
「既に事実婚みたいなものだがな、正式に貴様を貰いに挨拶へ行く。何か不都合はあるか。あるのなら申してみよ」
「ない!ないないない!愛してんぜ元就!流石俺の旦那様だ」
「…ふん。当たり前ぞ」
とりあえず四日後の土日の予定はこれだな。我の両親とこやつの母親は結婚は歓迎ムードだから問題なかろう。むしろ母親達には「まだしてなかったの?」と聞かれたくらいだ。うむ、問題ない。こやつの父親はうるさいかも知れぬが仕方ない、一発位なら我慢することにしよう。元親が貰えるならな。
「ありがとう元就」
「ありがとう元親」
そんなやり取りをしていたせいで講義に間に合わなかったと言うことは伏せておく。迂闊だったのだ。