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「江藤さん!」
呼ばれて、振り返った。
けれどそこに俺の知った顔はなくて、空耳かと納得して再度歩き始める。
雑踏が煩わしいほど行く手を阻む。
朝、この通りは人でごった返す。
だから、大して珍しくもない苗字だ。
大方、俺ではない江藤がいたんだろう。
「江藤さん!」
もう一度、呼ばれた。
今度は方向がわかった。
こちら側ではない。
車道を挟んだ、反対側の歩道からだった。
歩調を緩め、でも止まらずに目を凝らす。
反対側の歩道も混雑していた。
けれど、俺を呼んだ人物はすぐにわかった。
暗いスーツの集団の中で、一際目立つ桃色のカーディガンを着た直ちゃんがいた。
ぴょんぴょんと飛んで、人波から顔を出して、笑顔で手を振ってくる。
「直ちゃん!」
偶然ほど嬉しいものはない。
驚きながらも、俺は一番近くにある横断歩道まで駆けた。
肩がぶつかって、睨んでくる輩も複数いたけれど、気にしない。
点滅している青信号をダッシュで駆け抜けた。
華奢な直ちゃんは、俺のところに来てくれようとしているのに雑踏に揉まれてあまり進めていない。
ぶつかってしまった人にいちいち謝っていて、どこまでも彼女らしいと微笑ましく思ってしまった。
俺は直ちゃんのところにようやく辿り着くと、その細い手首を掴んだ。
「おいで。抜け道があるんだ」
「本当ですか!」
嬉々とした声を背中で受け止めながら、歩を進める。
なんだってこんなにこの通りは人混みが激しいのか、よくわからない。
直ちゃんに人がぶつからないように盾になりながら、抜け道である細い路地に入った。
人が一人、入るのがやっとの、ビルの隙間。
直ちゃんを引きながらそこを抜けると、人通りの少ない路地裏に出る。
俺と直ちゃんは、同時に息をついた。
「凄いですね。人が多くてびっくりしました」
「この時間は特にね」
改めて直ちゃんを見ると、その変わりようのなさに安心した。
やわらかな笑顔と、その雰囲気。
癒しを与えてくれる。
そこで、俺はまだ直ちゃんの手を掴んでいることに気付いて、慌てて離した。
「ごめん、つい」
「何がですか?」
相変わらずだった。
返答に困って鼻っ柱を掻く。
「どこか行くの?」
「そうなんです! 秋山さんと映画に行く予定なんですけど」
「秋山ね…。って、え、今から? まだ7時だけど」
腕時計を確認しても、まだ朝の7時。
こんなに早い時間から上映している映画館などあるのだろうか。
秋山と、というところはもはや心の傷が深くなるばかりなので流しておくことにする。
深追いは痛手。
「そうなんです! 秋山さんが待ち合わせ場所にいなかったので電話したら、どうやら私が1時を7時と聞き間違えちゃったみたいで、怒られちゃいました」
それでも笑顔の直ちゃんはきらめていて、眩しいくらいだった。
昼の13時まではまだ6時間もある。
「どーすんの? 1時まで」
「待つのは得意なので、のんびり待ってます」
「朝飯は?」
「まだです!」
「じゃあ…一緒に、行く?」
「いいんですか?」
いっそう輝かしくなった笑顔につられて、俺の頬も緩んでしまった。
どうも彼女の前ではだらしなくなってしまう。
最後のチャンスかもしれない、このデート。
俺は大切にしようと思いながら、直ちゃんを案内した。
少し歩くと、早朝からやっている古いカフェがある。
人も少ないし、雰囲気も味も悪くないので、そこにしようと思っていた。
路地は一方通行なので、車が1台通れるほどの広さしかない。
その右手に、目当ての店があった。
「ここ」
「きれいですね」
言いながら、直ちゃんはお店に駆け寄ろうとした。
そこに1台のバイクが走り込んで来て、咄嗟に直ちゃんの腕を掴んで引き寄せていた。
守るように直ちゃんを抱いて、バイクが通り過ぎるのを待つ。
鼓動が早い。
直ちゃんに危険が迫ると、こんなに焦るものなのかと実感してしまった。
「あの、江藤さん」
腕の中から声がして、はっと手を離す。
抱き締めてしまっていた。
「ごめん」
「いえ、ありがとうございます。綺麗なお店だから、思わず走ってしまった私が悪いですし」
申しわけなさそうに目を伏せる直ちゃんが可愛くて、どうにか直ちゃんは悪くないと伝えたくて、でも言葉が浮かばない。
ただ、頭を撫でたくなって、手をあげた。
「直」
俺と直ちゃんは同時に振り返った。
いま来た道に、秋山が立っていた。
気だるげにズボンのポケットに両手を突っ込んでいて、言葉では直ちゃんを呼んでいるのに瞳は俺を睨み付けている。
何だか後ろめたい気がして、目を逸らした。
悪いことはしていない、はず。
いや彼氏がいる子を誘った時点でアウトなのか。
「秋山さん、どうしてここに?」
「君が時間を間違えたんだろ? だから早く出て来た」
「そうだったんですね」
場所の特定は、もはや秋山の特技なんだろう。
あいつの頭のよさは、これでもかというほど見てきた。
「江藤さんと朝ご飯を食べようかと思いまして、秋山さんも一緒に食べましょ」
秋山は俺をじっと睨みながら、口角をあげた。
「一緒に、ねえ?」
秋山の探るような声色に、あのゲームを思い出す。
身震いして、鳥肌がたった。
「江藤さん、行きましょ」
直ちゃんが俺の袖を掴んだところで、秋山の手が直ちゃんの手を掴んだ。
驚いた直ちゃんが秋山を見上げる。
「君はね、他の男に触らなくていいの」
「え?」
直ちゃんの戸惑いに心が痛くなって、俺は割って入った。
「朝飯はひとりで食うからさ、2人はほら、違うところに行けば?」
「でも」
「なら今度、穴埋めに」
「今度?」
秋山がまた俺を睨んだ。
慌てて首を振る。
「いや、いいよ。せっかくのデートなんだから。じゃあな」
言い終えるが早いか、俺はそそくさとそのカフェに逃げ込んだ。
初めにカウンターで注文してからテーブルに運んできてくれるスタイルの店で、モーニングを頼んだところで振り返る。
ガラス窓から直ちゃんが俺を見つめていて、笑顔で手を振っていた。
俺は遠慮がちに小さく手を振り替えす。
解せぬ、と言いたげな顔で秋山が直ちゃんを引っ張っていくのが見えた。
もう誰もいない路地を見て、解けた緊張と、憂いが帯びた溜め息が出る。
「切ないなあ」
店主の髭をたくわえたオヤジが呟いた。
聞こえなかったことにしといた。
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