04



あの男が入院した。という話を聞いたのは電話越しの医者からだった。

一本の白い花を手に真っ白な病棟を真っ直ぐに歩く。周りから訝しげな視線を受けるが関係ない。もし誰かから指摘を受けたとしても、あの人はこの花が好きなんですと言いくるめるつもりだった。私があの男にくれてやる花なんてこの花かあるいは菊の花ぐらいだった。

ノックをする前にドアを開ける。期待していたのは白いベッドに沈んだ細い身体と寝顔だった。だが、そんな期待を裏切るように目に入ったのはベッドの上に胡座をかいて煙草を咥える男の姿だ。そしてそいつは私の姿を視界に捉えると大口を開けて顔を歪めた。

「お前マジで来たのかよ!馬鹿じゃねーの!」
「…病院にいるときぐらい静かにすれば」

やはり来たのは間違いだったかもしれないと溜め息を零しながら、ぐるりと病室を見渡す。個室。どういう根回しをしたのか知れないが、普通ならこんな奴大部屋にぶち込んでおけばいいだろう。それとも、もう既に他の患者からの悪態でここに移された後なのか。

医者からは電話口であまり良くないとだけ言われていたが、どこが良くないのか医学知識のない私にはまるで分からなかった。痩せた訳でも管を繋がれてる訳でもない。変わったことといえば、いつも付けていたジャラジャラとした金属がどこにも見えないことだけだろう。

ふーん、と全身を舐めるような視線を受けながらどうにも居心地が悪くて断りを入れずに棚の中を探る。さすがに花瓶は見つからずに簡素なグラスに水を張って買ってきた花を差した。男は興味がないのか、意味を知っているだろうにそれに全く触れることはなかった。

「猿比古とはうまくいってないんだって?」

代わりにこれだ。病室に軟禁されてるはずなのにどうしてそんなことを知っているのか。舌打ちをしたくなるのを堪えながら無視を決め込む。ここで反応したら負けだと思った。

「可哀想になぁ。あんなに可愛がって育てたのに恩も返さないまま離れていくんだもんなぁ」

可哀想だなんて微塵にも思っていないくせに。ニヤニヤと汚く深い笑みから逃げるように目を閉じる。真っ白な空間の筈なのに薄汚れている。清潔な空気の筈なのに息ができない。頭がガンガンと痛んで今にも逃げ出したくなる。

助けてと求めたところであの子は現れない。声は届かない。届いたところでその瞳が振り返ることなんて、ない。

「ほんと、惨め」

グラスをテーブルに叩きつける。水が跳ねて小さな水溜りを作る。特別驚いた様子もなく見せつけるように目の前に置かれた百合の花を眺め、そいつはおもむろに手を伸ばした。ただえさえ少ない花弁が一枚、テーブルの上に落ちた。

「今日からここに通う」
「はあ?何の為に」
「アンタの醜態この目で見届ける為だよ」

見上げてくる瞳には純粋な疑問の色があった。とは言っても、この男ほど純粋という言葉が似合う人間もいないと思う。いや、純粋なのだ。純粋に悪なのだ。そこに自分自身疑問も不思議も感じることがない。純粋でいて不純。ここまで理不尽に矛盾を抱えた人間も珍しい。

瞳の中にいる自分は思っていたよりも冷静な目をしていた。その実、腑が煮えたぎるような思いをしていると自分自身実感しながらも思考には余裕があった。沸騰した感情を脳から切り離し、別の世界に据え置く。脳幹は冷え切っていた。

「死に際見て、看取って、死にたくないって無様に醜態晒すアンタをこの目で拝んで最後に惨めだなって笑ってやる」
「おいおい、猿に捨てられたからって八つ当たりかよ。醜態晒してんのはどっちだ?」
「誰のせいだと思ってんだよ」

見上げることは多々あれど、見下ろすことはなかった。ましてや、見上げられることもなかった。思えば、視線が交わったのは今が初めてかもしれない。力もなく、存在すら認められることがなかった過去の自分と今の自分はどこか違う。その優越感が全身を満たし、口元が歪んだ。

「お前がいたから、猿比古は私を見なくなったんだ」

こいつがいなければきっと私もあの子もここに命を授かることもなかったのだろう。だが同時に、こいつさえいなければあの子はあんな風にはならなかった。伏見楓は最早この世界に存在すらしない亡霊だ。命があろうがなかろうがこの際どうだっていい。

でも、あの子は違う。あの子は少なくとも私の中では存在し、価値があり、意味がある。確かに生きているのだ。そんな子を私の世界から連れ出したのはこいつだ。こいつさえいなければあの子は伏見楓という概念の中で生きられた。こうして悩むことも絶望することもなく、ただ私という一つの世界で幸せでいられたのに。それなのに。

今ここでこの男を殺せば何かが変わるのだろうか。きっと変わりはしないのだろう。だって、もう世界は壊れてしまったのだから。壊れたモノは直すことはできれど元通りにはならない。だったら、破壊した奴の無様な末路をこの目で見届けてやろうじゃないか。

黒い瞳の中の自分が揺らぎ、別の何かに変わろうとする様が見えたような気がした。だが、それを確認する前に瞳は閉じられ代わりに部屋には笑い声が木霊した。

「お前も段々いい目するようになってきたなあ」

三日月型に歪められた瞳と唇。あの子に似た瞳と唇。穢らわしい。今すぐに潰してしまいたい。だが反面、その瞳が私を見るということはつまりあの子が私を見ているとも言えるのだ。たとえそれが幻でも錯覚でも思い込みでもいい。その瞳が私を映しその唇が私の名前を紡げば、それは私の世界では現実になるのだから。

「それでこそ俺の子どもだよ、楓」

その響きが少しだけ意味を持った気がした。



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