03




真っ暗闇の中に能面のような白い顔が浮かび上がる。口元は動かず、視線も一点を見つめるだけ。時々、目の渇きを潤すように繰り返される瞬きがそれが生きていることを証明し、人間であることを確信させる。真夜中、きっとこの能面はあらゆる家庭に現れるのだろう。

WINという文字が画面に浮かび上がるのを見て、ようやく硬くなっていた表情を崩した。目を伏せ、長時間持ち上げていた腕を白いシーツの上に投げ出す。さすがに疲れた。胸に落ちたタンマツはその酷使を主張するかのように熱をもっていた。

暇潰しにはじめたタンマツのアプリだ。連絡機能を持ち合わせ、ゲームアプリも併用することができ、その他にもいろいろと機能があるらしい。この一つのアプリでどんなに大きなネットワークが構築されていてるのだろう。この国、いや世界を股にかけたアプリケーションは細く細かい蜘蛛の巣を張り巡らせ、なにを捕まえ食らうと言うのだろう。

発明家というのはすごいものだなと素直に感嘆しながらタンマツの電源を落とし、横になる。それだけの知恵や力、財力があれば世界を変えることもできるのかもしれない。でも、それだけでは駄目なのだろう。私には決定的に足りていないものがあるのだから。

隣の部屋で物音がして、ドアの開く音がした。耳をすませば階段を降りる音もする。時計を見れば、それなりにいい時間だ。追いかけるようになるべく音を立てずに階段を降りる。玄関には黒いカーディガンを羽織った背中が俯いていた。

「いってらっしゃい」

ビクリと肩が揺れて慌てた様子で振り返る。その丸くなった目と目が合い、声の主が私だとわかった猿比古は心なしか安堵したように眉を下げ、しかしすぐに表情をなくして家を出て行った。

どこに行くのか、誰かと一緒なのか、いつ帰ってくるのか。聞きたいことはたくさんあったけれど、なに一つ声に出すことはできなかった。そのことを知る資格などあの子からしてみれば私にはないのだから。

今日もきっとあの赤い少年と私の知らないどこか遠くに旅に出るのだろう。あくまで想像だ。予想だ。妄想だ。だが、あの子に世界をもたらしたのは私ではなく紛れもないあの少年なのだ。なにが噛み合ったのかは知らない。でも、きっとあの子はその道が違わない限りあの少年の隣を歩き続けるのだろう。

「八田美咲、か」

変わった名前をしている。まるで女の子のような名前だ。それを理由に虐められた過去もあるのではないだろうか。でも、あれ?なにか引っかかる。ああ、そうだ。それはあの子も同じか。考えれば考えるほど見つけたくない二人の共通点が浮き彫りになってくるような気がした。

私は、どうしてこの名前を授けられたのだろう。仮にも親であるアイツらはなにを思って楓という名前を与えたのだろう。特別珍しい名前ではない。この名前のせいでなにかされたこともない。この名前でなければならなかった理由など、ない。

たった数分、私の方が母親の中から先に出てきただけだ。実際、アイツらがどちらを先に見たか、どちらを先に抱いたかなんて知らないし知りたくもない。ただ、先に生まれ落ちた。だから姉になった。だから姉さんとあの子に呼ばれた。でも、もし私の方が生まれるのが遅かったら、あの子は私を楓と呼んだだろうか。そもそも私の名前は楓だったのだろうか。

そう考えると喉元を掻き毟りたくなる。やはり私が楓である必要性などどこにもないのだ。誰にも呼ばれることのない名前など意味がない。この世界でこの名前にはなんの価値もない。

呻き声が上がる。頭の中がぐちゃぐちゃになる。手の中から滑り落ちたタンマツが勝手にアプリを開き、誰のかも分からない悪口を並べ立てる。でも、どれだけ探してもそこに私の名前はない。私のことを語る人間なんて、どこにもいない。

「そうだ。作りなおさないと」

指の隙間から見えた世界は輝きに満ち溢れ、色鮮やかだった。鉄格子に手をかけ、必死になって道を開こうとしてもそれはビクともしない。なにか道具を持って来なくては。振り返った私の目に飛び込んできたものは荒み、混沌が渦を巻き、端から崩落をはじめる世界だった。

いつから私は自分の作り上げた世界が推敲なものだと勘違いしていたのだろう。あんなもの、どこにでもあるようなガラクタ置き場と同等の価値しかなかった。妄想の産物。夢物語で作っただけの優しいセカイ。だから不純物が紛れ込み簡単に壊れ、こうして崩壊した。

今のあの子の世界に私はいない。そして、私の世界はもうここにはない。そして、『世界』に私の存在価値はない。なんて薄汚れた醜悪な世界なのだろう。私が『私』のままでは、もう世界が正しい方向に向かうことはないのだ。

崩壊した世界を再生することはできない。なら、新しい世界を作ればいい。もし、世界が内側から壊れてしまうのであればその世界に自我と意識を持つ人間は私以外必要ない。もし、世界が外側から壊されてしまうのであればその外敵をこの手で一人残らず駆除しよう。

全てを憎み、拒絶し、利用し全ての世界を包みこむ宇宙そのものを壊してしまえば、その世界は完全無欠のものとなる。混沌の中で輝くたった一つの理想郷。なんと甘美な響きだろう。

「…ふふ、ははっ、あはハハハッ」

たとえ嫌われたって構わない。恨まれたって構わない。ただ、眠らせて飾りつけて鳥かごの中に入れてしまえばそれでいいのだ。その目が私を映し、その意識が私を捉え、その口が私の名前を呼んでくれさえすれば、それで。




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