Bon Séjour | ナノ


▼ バレンタイン

その日は男も女も浮き足立つ行事のある日だった。男は誰かから好きという感情を形として受け取れるのではないか、という期待から。女は相手に好意を伝えることになるという緊張と僅かながらの傲慢さから。ただの食べ物を渡すだけの単純な行為。でも、そこにある赤い糸を確かな形で結ぶことができる儀式。バカみたいだけど、私もこの行事に胸を高鳴らせる女の一人だった。

義理チョコ、友チョコ、逆チョコ、自己チョコ。渡すモノの種類はいろいろとあるみたいだけど私の場合はその中のどれでもなく、起源的な本命のそれ。仕事の合間を縫って買い出しに行き、仕事終わりにせっせとチョコレートを溶かして別のモノを作り出す。食べたら終わりのそんなものの為に私はほぼ徹夜状態。そんな私の姿を他人が見たら、鼻で笑うだろうか。

別にそれでもいい。私が満足できればそれでいい。所詮、人間なんてそんなもの。女々しい自分が恥ずかしく思えて、わざとそんな利己主義的なことを言って開き直る。だって、仕方がない。そういう日なんだから。私も今年はこの日を楽しみにしていたんだから。今まではいろんな先輩に渡していた日頃の感謝を込めた義理チョコ。でも、今回は一つだけ違うから。

道場での朝稽古が終わり、それぞれが各自の持ち場に向かおうとする頃、私はキョロキョロと周囲を見回して一人の姿を探す。そして見つけた後姿に駆け寄って声を上げれば、少し不機嫌そうな顔が振り返る。

「伏見先輩、伏見先輩っ!」
「…朝っぱらからウザいくらい元気だな、お前」

ほんとに犬みてぇ。呆れたような表情。溜め息混じりにそう言った伏見先輩はなんだか少し苛立っているように見えた。稽古の時、何かあったのだろうか。それとも普通に低血圧で?はたまた私がうるさい声を出したりしたから。悶々と考えて頭の中をぐるぐる回していれば、何の用?と本題を切り出されてハッとする。

「これ、良かったら食べてください。いつもの感謝の気持ちです」

少し大きめの赤いリボンのついた袋を差し出す。少しだけ緊張した。去年はただの先輩にと思って渡したチョコ。今年は愛する人にと思って渡すチョコ。同じものでも、やっぱり気持ちが違うとなるとドキドキしてソワソワして、本当に受け取ってもらえるのかと心配になる。

ラッピングされたチョコが何なのか、皆まで言う必要はないだろう。伏見先輩だって今日が何の日か知っているに違いない。もしかすると、私よりも先に誰かが先輩にチョコを渡しているかもしれない。それが本命なのか義理なのかなんて、分からないけれど。でも、もし本命だったら?そう思うと胸の内に潜む黒いものが膨らむ。

「手作り?」
「は、はい。甘いのは苦手だと思って苦めなのを作ったみたんですけど…」

緊張で少し固い声になってしまった。私は何をそんなに怖がっているのだろう。何も怖がることなんてないのに。ぎゅっと袋を握りしめれば、くしゃりと皺が寄る。それぐらい私の気持ちは落ち着かない。

だから、じーっと私の手元にある袋を見つめていた伏見先輩がひょいとそれを取り上げたのを見て不思議なほどまで安堵した。だけど、早々に袋を開けようとする先輩に落ちかけていた緊張は一気に浮上して驚きと焦りと共に混ざり合う。

「えっ、こ、ここで開けるんですか!?」
「なに、ダメな理由でもあんの?」
「いえ…、ない、ですけど…」

反論はできない。理由なんて何一つもない。だけど、作った張本人の前でわざわざ包みを開いて食べようとするだろうか。なんだか恥ずかしいから部屋で一人になった時に食べてほしかったのに。そう思ってもそれを口に出したところでからかわれるだけだということは分かっている。行き場のなくなった両手をぎゅっと握り、綺麗な指先がチョコをつまんで口の中に運ぶのをドキドキしながら見守って。

「どう、ですか?美味しいですか…?」
「ん、不味くはない」

そう言いながらも二個目を口に運ぶ先輩の姿を見て心底ホッとした。ああ、よかった。気に入ってもらえたんだ。胸を撫で下ろして微笑む。喜んでもらえたのなら嬉しいです、と。そんな私を一瞥して伏見先輩は視線をそらした。

「…そのデカい紙袋はなんだよ」
「あ、これですか?これは他の人に渡す分です」

腕にかけていた大きめの紙袋をぶらぶらと揺らしてアピール。バレンタインは本命チョコを渡すだけの行事じゃない。お世話になった人たちみんなに渡すものだ。だからと思って素直に答えてみたものの、どういうわけか伏見先輩の眉間には深い皺が刻まれる。

「他の奴って、誰」
「えと、宗像室長とか淡島副長とか、特務隊の先輩たちに渡そうかと」

たくさん作って余っちゃいましたし、去年も同じことしましたから。深く考えずに当然のことのように言葉を並べて、それがどうかしましたか?と首を傾げれば、伏見先輩は不機嫌そうに舌を打つ。

「余りものなら自分で食えよ」
「無理ですよ!こんないっぱい…。それに、あんまり苦いのは得意じゃなくて…」
「ふーん?」

何か企んでる顔だな、とは一目見て分かった。もうずっと先輩のことを見てきているんだから、それぐらい分かる。だけど、何をするかまでは検討もつかなくて、いきなり紙袋の中に手を突っ込まれて特務隊の先輩たち用のチョコを取り出されるとは思いもせず、しかもそれを開いて中身を出すだなんて誰が考えようか。慌てて手を伸ばして止めようとしてーーーーー

「あっ、ちょ、ちょっと先輩!何して…ンむっ!?」

そして口の中にチョコを押し込まれて、自分で作ったものを自分で食べるという無残な結果に終わった。仕方なしに舌でその固体に触れれば、苦い味が溶けるように広がっていく。美味しいけれど私にはもう少し甘い方がいいな、なんて呑気に感想なんかを心の中で呟いて無言で完食。そこで声を漏らすとか女の子らしい可愛げなんて欠片もない。

「どう?」
「…やっぱり苦いです」
「お子様」

だって私は甘いものの方が好きだから。そう弁解しようとした私の口端に残ったココアパウダーを赤い舌がペロリと舐めとる。ざらりとした感覚と生温かいそれに、ぼふんと音がするんじゃないかと思うぐらいに一気に顔が熱くなる。その時だけはもしかすると私も女の子らしかったかもしれない。

舐められた。先輩に、舐められた。いつだってこういう時に伏見先輩は余裕そうに当たり前のようにしてくるけれど、私はいつもドキドキして緊張する。恥ずかしくなって顔が熱くなる。赤くなった顔を見られないようにと俯いて、声を出すこともできずに視線を彷徨わせていれば、うなじに触れられてビクリと肩が跳ねる。

「相変わらず処女みたいな反応」
「なっ、なななっ…!」
「そのチョコ溶かして塗りたくってやりたい」
「え、…え!?」

話の展開についていけず、言葉にならない驚きの声を上げることしかできない。そんなことしていいわけないじゃないですか。想像するだけで羞恥で失神しそうになって、目の前をぐるぐるさせながら首を横に振る。

「だ、ダメです、ダメ!食べ物を粗末にしたらいけません!め、めっ!」
「…狙ってんだろ、お前」
「え?…っち、違いますよ!そうじゃなくて、あの、そう!恥ずかしくてですね!」

あたふたしながら身振り手振りも加えて必死になって、そんなつもりらないのだと説明した。だけど、そうするたびに自ら墓穴を掘っているような気がして、だんだんと声の調子が下がっていく。なんだか、よく分からなくなっちゃって。消え入りそうな声でそう言った私の顔はきっと沸騰してしまうぐらい赤くて熱い。そんな私を見て伏見先輩が思ったことは何だったのだろうか。

「…渚、腹減った」

咄嗟に考えたのは馬鹿みたいに冷静なことだった。先輩がお腹をすかせている。何か作った方がいいのだろうか。食堂に行こうか。それとも作ったチョコを全部あげてしまおうか。一瞬のうちに状況を整理してこれから起こす行動を模索してーーーーだけど、それも唇を塞がれて全て無意味なものになる。

背中を壁にを押し付けられて逃げ場を失う。それでも手首を押さえつけようとしないのは私に逃げるつもりなどないことが分かっているからだろうか。その時も私の頭はなぜか冷静でいられた。だけど、そうしてぼんやりとしていればかち合った視線が厳しいものになって、顎を掴まれて顔を上に向かされたかと思えば小さな固体とドロリとしたものが口の中に流れ込み、目を見開く。

「っ、…ふぁ……んッ」
「…ン、…」

苦い。口の中にまとわりつく。それが自分の作ったチョコだと気づいた時には先輩の舌の口内への侵入を許していた。すっかり冷静さを欠いた私は舌を引っ込めて逃げようとするものの、伏見先輩がそんなことを許す筈もなく絡めとられる。

ドロドロになったチョコが脳内を溶かしていくように感じた。思考が掻き回されて、ただ倒れてしまわないようにと服を握りしめて。飲み込みきれなかったチョコが唾液と混ざり合って顎を伝って、苦しさで生理的な涙が溢れ出す。ボロボロと涙を流して声を漏らして縋るように衣服に手をかけた私に伏見先輩は目を細め、絡ませていた舌を私のそれから離した。

「ぷはっ…はッ…ハァ…、くるし…っ」
「まだ終わってねーよ」
「ふ、ぇ……っん、ンん…!」

酸素が入ってきたかと思えばまだ酸欠状態。膝が崩れそうになれば足をねじ込まれてそれも許されない。何も考えられない。視界がぼやける。そんな混濁しかけた意識を引き戻すようにガリっと唇に歯を立てられた。

「ッ…!はっ……ふしみ、せんぱい…?」
「…甘かった?」

肩で息をしながら、そういえばと思い返す。最初こそ苦かったものの、途中から苦味なんてどこかに消えてしまった。それが甘いと表現するかは定かでないけれど、でも甘かった。味だけじゃなくて、他の何かも。俯きながら小さく首を縦に振れば伏見先輩は口元を歪めて、身体を離す。その手にはいつの間にか私の紙袋が。

「これ、渡すなよ。誰にも」
「ええ!?も、もったいない…!」
「自分で食えばいいじゃん。それとも、ここにあるの全部さっきみたいにして食べさせてやろうか」

また顔を近づけられてぐっと言葉に詰まる。あれだけの量を口移しされたら窒息死する気がする。それだけじゃない。あんなこと続けられたら私の心臓が保たない。でも、いつもお世話になっている人たちに渡さなくていいのだろうか。どうしようと視線を右往左往させていれば名前を呼ばれる。渚、と。ああ、この人は本気だ。逃げられるわけがない。

「わ、渡さない、です…」
「いい子いい子」

言葉の割には乱暴に頭を撫でられて髪の毛がぐしゃぐしゃになる。いい子だと思ってるなら、もう少し丁寧にやってくれてもいいのに。そんなことを考えるけれど、でもこうして撫でてもらえることは子供のように嬉しいことで。緩む口元を押さえながら、ヘラっと笑ってみせた。

「伏見先輩、わたし、好きですよ」
「はあ?…なんだよ、急に」

何の脈絡もない言葉に伏見先輩は訝しげに眉を潜める。そんな姿すら今は好きだと思った。まだ私は伏見先輩の全てを知ったわけではない。理解したわけでもない。だけど、今私が知る限りの全ての伏見猿比古という存在が、私にとっては愛しいものであり、かけがえのないものだった。

でも、そんなの虚構であったとしてもいくらでも口にできる。だから、ハッキリと分かるものが欲しかった。明確に、信じてもらえることがしたかった。

「チョコなんて食べればなくなるものです。でも、形にして気持ちを表したかったんです」

プレゼントという形で、渡すという行動で、そして最後に好きだという言葉で。これが今の私にできる精一杯の【愛してる】。

「チョコはなくなっても、私の気持ちはずっとなくなりませんからね」

言い方を変えれば、気持ちを具現化したチョコが伏見先輩の中に入ったということで、つまりこれは私の気持ちを伏見先輩に埋め込んだんですよ。笑いながら人差し指を立てて、そんな馬鹿みたいなことを私は生真面目に言う。そうすれば案の定、伏見先輩の表情が歪んだ。

「…なに言ってんだ、お前」
「えと…、やっぱりおかしかったですね」
「おかしいに決まってんだろ。バカのくせに詩人みたいなこと言うなよ」

そう言いながら伏見先輩は私の頭をまたぐしゃぐしゃにする。今度は、さっきよりもずっと強い力で。押し付けられるかのような力に私は頭を下げるしかなくなる。なんだろう。これは、まるでわざと私に頭を下げさせているような。

なんだろう、何かが引っかかる。でも、それが何なのか分からない。頭を下げた状態のまま首を捻って真剣に考える。だから、気付かなかった。伏見先輩が私の頭に顔を近づけてきていたことに。

「 」

唐突に耳元で聞こえた声に私の身体は一瞬制御を失った。視線が床に固定されたまま動かない。今まで伏見先輩の口から聞いたことがなかった言葉。頭の中を反響し、胸のあたりに落ちてくる。そこまでしてようやくその言葉の意味を理解した。当たり前のように使う言葉だけれど、どんな言葉よりも嬉しいその言葉の意味を。

勢いよく頭を上げればさすがにそうすることを予想していなかったのか、伏見先輩は驚いたように目をまん丸にして手を離していた。それから、がっちりと合った視線。青い瞳が揺れて、目の下がほんのり赤みがかる。あっ、と思った時には伏見先輩は私に背を向けて歩き出していた。

「…先行くから」
「え!?ま、待ってください先輩!」

早足でその背中を追いかければ、ぐいっと腕を引かれて横に並べられて、見上げた先の僅かに赤く不自然に引き締められた唇に、やっぱりこの人が愛しいと恐れなど忘れて微笑んだ。


Happy Valentine!
20130214



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