Bon Séjour | ナノ


▼ 黒猫

私の自室には何も物がない。もともと備え付けられていた必要最低限の物があるだけで、その他には何もない。私と同じぐらいの年頃の女の子が持っていそうなもの。かわいいものも、オシャレなものも、ここには何もない。まるで意味のない、ぽっかりと穴の空いた空間でしかない。

そのことを気にしたことがない、というのは嘘。本当はちょっぴり他の女の子が妬ましい。なら、買いに行けばいいだろうと思われるかもしれないけれど、そんな時間の余裕もない。それに、買って置いたところで満足するのかと言われればそうではなかった。

部屋をかわいく飾ったところで自分自身がそうなるわけではない。それに、今まで何もなかった筈の場所が突然かわいくなっているとか、そんなところを見られてどうしたのかと言われるのもなんだか恥ずかしい。嫉妬なんてそれほどあるわけでもないのだから、今まで通りのままでいても全然構わない。

どうせなら、無機質なものよりあたたかさのあるものが欲しい。傍にあって欲しい。その願いが通じたのかどうかは分からない。でも、まるで私の思いを汲んだかのようにその子はやって来た。

「…ごはん、食べる?」
「にゃー」
「〜ッ、かわいい!」

そう言って思いっきり抱きしめれば、もう一度鳴き声を上げながらも大人しく私の腕に収まったのは一匹の子猫。実は数日前に屯所の庭をウロウロとしいたところをたまたま通りかかった私が発見して、一目惚れした。それはもうズキュンと音を立てるぐらいに、一瞬で。我ながら、なかなか見事なトキメキっぷりだったと思う。

そしてそのまま警戒したように毛を逆立てるこの子を誘拐…ではなく部屋まで連れ帰ってきた。最初こそは怖がられて引っかかれたりしたものの、数日粘りに粘って可愛がり続けた結果、今となっては抱きしめてもこうしてゴロゴロと喉を鳴らすぐらいまで懐いてくれた。まあ、いつもいつもというわけではなく普段はツンツンしていることが多いのだけれど。

「かわいいなぁ…、なんで猫ちゃんってこんなにかわいいんだろうねぇ」

擦り寄ってくる小さな背中を柔らかく撫でながら惚けたように呟く。癒やし。ここのところ仕事続きで休みの取れない私にとって、部屋に戻ると出迎えてくれるこの子は本当に心の救いのようなもので。こうしてじゃれ合うだけで疲れが吹っ飛んでしまう。

私は犬も猫も好きだった。家で飼うことはできなかったけれど、街中で散歩をしている犬や自由気ままに路地を歩いている猫を眺めることもよくある。だから、こうして実際に一緒にいられることがとても嬉しい。この子と出会えて良かったと思える。

だけど、それだけじゃない。ただ単に猫を飼うことができたから嬉しいわけではない。いや、嬉しいという感情すら間違っているのかもしれない。たぶん、この気持ちの全ては嬉しいでは完結していない。きっと、安心しているのだ。

「…比古くん」
「にゃー」

私が勝手につけた名前。でも、その名前で呼べばこの子はちゃんと答えてくれる。答えて、私のことを見て、一緒にいてくれる。言葉は話せなくても、あたたかくて傍にいてくれる。頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめた。

「やっぱり、伏見先輩と似てるね、君は」

黒い毛色で、青い目をしていて、どこか他人と距離を置いていて、でも優しくてあたたかくて。それでも、ずっと一緒にはいられない人。当たり前のことだとは分かってる。だって、人間なんだから。自分の生活があって、仕事がある。四六時中、傍にいられる筈がない。

ああ、馬鹿だなぁ、私。人知れず乾いた笑みを漏らして、本当に馬鹿みたいだと自嘲する。人間じゃない仕事もしない自由な生き方のできる猫。それは逆にこの子をこの部屋の中に封じ込めたって誰も気付かないし苦労もしないということ。私だけ、独占できる。

にゃー。鳴き声が聞こえてくるのと同時に手に僅かな痛みがはしってハッとする。見れば比古くんが私の手に爪を立てて鳴いていて。ああ、そうだ。ご飯をあげようとしていたんだと今さらのように思い出して、その小さな体から手を離した。

「ごめんね。今ご飯つくるからね」

立ち上がってキッチンに行こうとした時、ガチャリと玄関の方で音がした。その音に反応したように比古くんは顔を上げて、そのまま体を起こして玄関に歩いていってしまう。その光景をどこか他人事のようにぼんやりと眺め、それはいけないと瞬時に脳が命令して私も比古くんの後を追って小走りに足を動かした。

「っ、ダメだよ!外出たら!」

何がいけないと思ったのか。その時の私にはよく分からない。ただ、外に出したくなかった。それだけは確かに言える。だから、何とか止めようとして大きな声を出して玄関に走って、そして辿り着いた瞬間に身体が硬直する。

「…猫?」
「ふ、伏見先輩…!」

比古くんは部屋に入ろうとしていた伏見先輩の足元にいた。にゃーと鳴いて、伏見先輩の足に身体を寄せて、初めて会ったとは思えないぐらいに心を開いていた。それをどういうわけか、どうしてとは思わなかった。むしろ、それが当然だとすら思った。どうしてって、だって比古くんと伏見先輩は似ているから。

「なんで猫がお前の部屋にいるんだよ」
「えと、あの、それはですね」

声をかけられて慌てて詰まった喉から言い訳を吐き出そうとするけれど、咄嗟には出てこない。目を泳がせて行き場をなくした手をこすり合わせて、どうにかして言葉を探し出そうとするけれど、それよりも先に伏見先輩は呆れたように私を見て察したように溜め息を吐く。

「自室でペット飼うのは厳禁の筈だけど?」
「あー、うぅ…。でも、その子は野良猫みたいで、一人だったんです」
「なおさらマズイだろ。副長とか室長にバレたら始末書もんだぞ」

そう、自室で動物を飼うのは許されていない。もし宗像室長たちと耳に入ったとしたら、きっとあとで怒られる。それがこの子を外に出したくなかった理由の一つでもあった。だけど、こうして伏見先輩に見つかってしまった以上、この秘密は私だけのものではなくなってしまった。もし伏見先輩が誰かにこのことを言えば、隠し通せない。

どうしよう。内心落ち着いてはいられない。冷や汗のようなものが背中を流れる。そんな私と足元の比古くんを見比べて伏見先輩が言う言葉は分かりきっていたものだったけれど、それでも私は簡単には首を縦には振らない。

「元のところに戻してこい」
「そ、それは…嫌です」
「なら俺が戻してくる。どうせ屯所の外で拾って来たんだろ」

そう言った伏見先輩は比古くんの首根っこを掴まえて、その小さな体を持ち上げる。並んだ黒と青。それを見た私の心は純粋に拒絶の色を示す。だって、その子がいなくなったらまた私はーーーー綺麗とは言えない感情が渦巻いて、気付けば手を伸ばして声を上げていた。

「や、やだ、比古くん!」

思った以上に出た大きな声。伸ばした手は宙を切った。だけど、伏見先輩の手も比古くんの首から手を離していて。ストンと床に着地した比古くんは逃げるようにして一目散に駆け出す。私の方を見ることなく半開きになっていたドアの隙間をすり抜けてどこかへ行ってしまう姿は、まる自分の役目を終えたかのようにも見えた。

「あっ、比古くん待っ、」
「おい」

追いかけようとして一歩足を踏み出した私の手首を伏見先輩が掴んで止める。離してください、と言いかけた唇が途中で動きを止めたのは、見上げた伏見先輩の顔にいつもとは違う表情があったから。それを見て私は何も言えなくなり、伏見先輩の続ける言葉を待つことしかできなくなる。

「なんだよ、今の」
「今の、って…」
「名前。なんであんな名前、猫に付けてんだよ」

そう言った伏見先輩の表情はどこか苦々しげで、それでいて愉しそうだった。矛盾するようだけど、間違っていない。そこには入り混じって一言ではいい表すことのできない感情が存在する。悲しい?嬉しい?そのどちらもある。正反対の感情をこの人は同時に持ち合わせ、そうして私を追い込んでいくのだろう。

「なぁ、渚、なんで?」

答えなんてもう出ていた。それでも私は言うのを躊躇って、愉悦じみた瞳を直視することができずに顔をそらす。だって、こんなこと本人の前で言える筈がないじゃないか。恥ずかしくて、もどかしくて。逃げ出したくなって足を動かそうとするけれど、繋がったままの手がそれを許す筈もなく。

「寂しかったんだろ?」
「…っ、」
「だからあの猫に俺の名前なんてつけて代用品にした」

代用品なんて、そんな言い方しなくてもいいじゃないですか。そう言おうとして開いた唇を塞がれて、言葉も感情も呑み込まれる。舌を入れられて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、思考が働かなくなって息ができない。堪えきれなくなってぐっと胸板を押せば名残惜しそうに離れた先輩の唇。

「伏見、せんぱっ…」
「…今は俺がいるだろ、目の前に」

その唇が吐き出したものは独占だった。私が考えていてことと同じ。他のものなんて考えてほしくない。自分のことだけを考えて悩んで、苦しんで、喜んで、楽しんで、ただ頭の中を自分の存在で満たして欲しい。

「お前は俺だけ見てればいいんだよ」

願うことならば仕事も何もかも放り出して傍にいて欲しい。一緒にいて欲しい。抱きしめて、愛しているという証明が欲しい。なんて欲張りなのだろう。私も、そしてこの人も。苦笑いを浮かべながら、今度こそ瞳を真っ直ぐと見つめた。

「伏見先輩、やっぱりあの子に似てます」
「はあ?どこがだよ」
「そういうところが、です」

いつもは何も興味ないようにしているのに、たまに甘えのようなものを見せて、自分のことを見て構ってと爪を立てる。まるで、猫みたい。それを気づかせてくれたのは他でもないあの子だ。比古くんが私の前に現れて、少しの間だけど一緒に暮らして、そしてここを出て行った全ての行動が私と伏見先輩を繋げてくれた。

「…あの猫ちゃんに感謝かな」
「また猫のこと考えてんの?」
「え、いや、…ッん」

噛みつかれるようにしてまた口づけられる。容赦無く口内を荒らして、自分のことしか見れないようにして、まるで溶け合ってしまうかのような錯覚に陥る。身体から力が抜けて腰から崩れ落ちても止まることなくわたしを犯し続けた伏見先輩のどこか歪んだ愛情は、そうして身体と心に蝕んだ。

「俺のことしか考えられねぇようにしてやるよ」

きっとあの黒猫はこの人の化身だったに違いない。


Happy birthday Mrs.Amane!



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