nowhere | ナノ


▼ 60

カランカランと備え付けのベルが鳴ってドアが閉まる。助けを求めて中途半端に伸びた手が虚しい。今の心情を一言で表すとするなら絶望。置いていかれた。見捨てられた。丸投げされた。くそっ、と思わず声が出そうになった。

「やっぱり大変やなぁ。世理ちゃんの下で働くのは」
「は、はは…」

声をかけられてしまえば逃げ場を完全に失って、乾いた笑い声しか出てこない。がっくりと肩を落とし、半ば自暴自棄になって振り返る。こうなったらとことん聞き出してーーーーだけど、草薙さんの顔を見ることはできても目を合わせることはできなかった。

座り、と諭すように言われておずおずと腰を下ろす。そうすれば、テーブルの上にココアを置かれてびっくりする。思わず顔を上げれば草薙さんは、それ好きやろ?と笑った。この人は、どうして。

「あ、ありがとうございます」
「気にせんといて」

カップを手に取る。あったかい。指先からじんわり熱くなって、それを一口飲んだだけで身体の芯があったまる。ホッとした。ここに来て初めて肩の力が抜けた。

それでも、やっぱり居心地の悪いことに変わりはなくてなんとなく落ち着かない。茶色い液体に視線を落としつつ、眼球を小刻みに右往左往させる。それに気付いた草薙さんは苦笑いを浮かべ首を傾げた。

「なんでそないビクビクしてはんの?」
「だって、私たちは敵同士ですから…」
「真面目やなぁ」

普通の行動だろう。別に寝首を掻かれると思っているわけではない。不意打ちを喰らうとも思っていない。この人は私を傷つけるつもりなんてないと分かってる。だけど、怖い。でも、おかしい。なにが怖いのだろう。

そう考えてふと気がついた。そうか、私は草薙さんが怖いわけじゃない。ましてや真面目なわけでもない。

「先輩たちに知られたら、宗像室長に知られたら…なにを言われるか分からない。私は、人目が怖いだけです」

私がセプター4じゃなければ、草薙さんが赤のクランズマンじゃなければ、またこうして会えたことを喜んでいた筈だ。初めて会った時、なにも考えずにただただこの人と時間を共有できたのは私がなにも知らなかったから。

私は今、誰よりも身内を恐れていた。もし私がこんなところにいることがバレたら。淡島副長が一緒にいたならまだしも、もし一人でいるところを見られたら。もし裏切り行為だと勘違いされたら。

もし、伏見先輩に見つかったら。

言われぬ恐怖に固まった。冷え切った目。怒り。呆れ。暴力。屈服。あるいは、無関心。考えつく限りの反応すべてが恐ろしかった。

「渚ちゃん」

唐突に名前を呼ばれてハッとする。そうだ、私は今一人でいるわけじゃない。考えに耽っている場合じゃない。しっかりしないと。あまり時間もないのだから。

草薙さん自身、私に詰問されることを予想し、それを覚悟している様子だった。淡島副長がどうして私を一人ここに残したのか。それはもう、今を逃したらチャンスはないと分かっていたからだ。

肺に溜め込んだ息を吐き出す。馬鹿みたいに鼓動を繰り返す心臓の音を全身で感じながら、決意を固めて口を開いた。

「草薙さんも赤のクランズマンなんですよね」
「ああ。俺も八田ちゃんも、それから十束も吠舞羅や」

それは質問というよりは確認だった。もう分かっていたから。草薙さんも美咲くんも、そして十束さんも、きっとあの時このバーにいた全員がそうだった。

なにも知らずに武装もせず一人ノコノコ出向いていたのか、私は。少しだけ冷静になった私は過去の自分を嘲笑う。馬鹿みたいだなぁ、ほんとに。

そう、馬鹿だったんだ。私は、呆れるくらい馬鹿だった。もし、十束さんと会ったあの日ちゃんと話していれば、誘いを断っていなければ。

十束さんは殺される直前までカメラを回していた。彼は夜景を撮りに来たと言っていた、そう言っていた。カメラに残された日付はあの日。私が街中で彼に会ったあの日。彼の誘いを断ったあの日。

結果なんて分からない。もし私が一緒にいれば助けられていたかもしれないし、私も一緒に殺されていたかもしれない。だけど、僅かな生存の可能性さえ私は最初から十束さんから奪っていた。

私が悪いのかもしれない。私がいたら十束さんは死なずに済んだかもしれない。そうは思うけれど、それを認めてしまうのは怖く、そして善悪の優劣を言い訳にする。一番悪いのはあの男だろう、と。

「十束さんは、なんで…」
「それは俺にも分からへん。だからこそ、アイツを殺った奴を探してる。俺たちにはそれを知る権利があると思ってる」

仲間だから、友人だから。草薙さんの声はハッキリとしていた。曲げることのない、しっかりとした信念。それこそ、手段を選ばないと言いたげに。

そういえば十束さんが殺される映像を流したのは吠舞羅という団体だった。つまり、赤のクラン。この人だったのか。十束さんの死に様を人目に晒してまで犯人にたどり着こうとしたのは。

きっと、みんなが必死だった。犯人を見つけようと。草薙さんも、美咲くんも。そして、おそらくーーーー

「堪忍な、渚ちゃん」
「わたし?」
「薫のこと、黙っとって」

まさか学園島に渚ちゃんが来てはるとは思いもしぃひんかったから。草薙さんはバツが悪そうな顔をして視線をそらす。一瞬、言葉に詰まった。なんて言ったらいいのか分からなかった。

前以て教えてもらえていたらよかった。そう思う一方、一生知らずにいられればよかったとも思う。どちらにしろ、悩むことに変わりはなかったんじゃないだろうか。

「どうして…いえ、理由なんて分かりきってるんです。でも、なんで」
「なんで薫が渚ちゃんのことを殺そうとするか?」

随分と直球なんだな、と人知れず引きつった笑みを浮かべる。だけど、図星だった。気にせずにはいられなかった。

「それは俺にも分からん。知ってるのは、きっとアイツだけや」

もしかすると草薙さんなら、と思ったけれどそう上手くはいかないらしい。そんなデリケートな問題、口外しないのは当たり前だと言えば当たり前なのだけれど。

結局は本人に聞かなければなにも分からない。なにも解決しない。どうしてこんな目に、と思ったけれど、そんなの私が生まれた時から始まってしまった問題だ。私には、逃げることなんてできる筈がなかった。

「…これで良かったんだと思います。今そうじゃなくても、いつか向き合うことになるのは変わらなかった」

なぜ姉は私を殺そうとするのか。なぜ憎むのか。なぜ父は利用され、死んだのか。なぜ母は死んでまで私を産んだのか。なぜ私は母を殺し、父を死なせた組織にいるのか。

その全てを知る必要がある。知って、確かめる必要がある。なにが真実でなにが嘘なのか。私の知らない、姉さんの知っていること。それを知って初めて、私は一歩を踏み出せる。

「正直、まだどうすればいいのかなんてよく分かりません。でも…」
「…うん、分かった。無理に言葉にせんでええよ」

そう言われて少し気分が楽になった。今すぐに答えを出さなくてもいいのだと思えた。そんなのは、ただの気休めにすぎない。だけど、この時だけは。

「懐かしいなぁ。最初は俺と尊と十束、それから薫が来て…そのうち、いろんな連中が尊の周りに集まってくるようになってなぁ」

いろんな人が。あの時バーにいた人たち。美咲くんと、ガラの悪そうな人たちと、それから?視線をカップに向けたまま動けなくなる。気付きたくはないけれど気付いてしまった。思い出してしまった。

液体の水面に映し出されるのは自分自身だ。とてもじゃないけれど、今の私の顔は綺麗なものではない。恐怖と不安と焦燥の混じった表情。唇が震えた。

落ち着け。なにをそんなに怯える必要がある?ただ、確かめるだけだ。それをしたからと言って誰かになにかされるわけでもない。

「あのっ、草薙さん」
「ん?」

だから、自分の気持ちの問題なんだ。草薙さんはどうかしたのかときょとんとしている。言葉は、続けられなかった。声が出てこない。喉に引っかかって出てこない。

純粋に怖かった。受け入れてしまえば、騙されていたことを認めることになる。それが恐ろしかった。信じたくなかった。怖くて怖くて仕方なくて、だけど聞かずにはいられなかった。

「伏見せんぱ…、伏見、猿比古は…」

いったいなんなんですか。まるでモノのことを聞いているかのような言い方が咄嗟に頭に浮かんで口を噤む。嫌気が差した。違うだろう。そうじゃないだろう。

聞けばいいんだ。草薙さんはあの人のことを知っているんですか。あの人はあなたの仲間なんですか。それだけ聞けばいいのに。

そういえばアイツもセプター4だったかと草薙さんは苦笑いを浮かべる。それから、回顧するように店内を見回す。釣られて私も視線を巡らせた。

見えない。私には、なにも。ドア、バーカウンター、テーブル、ソファ。きっとそれぞれに思い出が残っている。でも、私にはなにも見えない。

「伏見も前は吠舞羅にいた。なかなか仲間内に馴染んでくれんくてな。十束も手を焼いとったわ」

その言葉の節に嫌悪は感じられなかった。草薙さんは認めていた。あの人が過去にここにいて仲間だったことも、そして今はここにはいないということも受け入れ、認めていた。

伏見先輩はいつもどこにいたんだろう。知らない。伏見先輩はいつもどんなことをしていたんだろう。知らない。伏見先輩はいつもなにを思い、なにを感じてここにいたんだろう。

「…わからない」

ここで伏見先輩は私の知らない時を過ごした。そんなの当たり前のことだ。私たちは今まで全く違った人生を過ごしてきたのだから。知らなくて分からなくて当然だ。

「あれ…?」

なのに、どうして悲しいんだろう。どうして苦しいんだろう。どうして寂しいんだろう。悔しいんだろう。どうしてこんなに涙が出そうになるんだろう。

まるで悟ったかのように草薙さんはふっと笑い、私の頭に手を乗せる。あっと思った時にはぼろぼろと泣き出していた。

伏見先輩の大きな手が好きだった。その大きな手が私の頭を撫でるのがもっと好きだった。安心させるように髪を梳くのが大好きだった。

「渚ちゃんは、伏見と出会えて幸せか?」

あの人と出会って、私はいろんなものを学び、いろんなものをもらった。今までなかったものも、いらないものも、たくさん。

その時、思い浮かんだのは伏見先輩だったけれど、それはさっき想像したものとは違った。

怒った表情でも、冷えた表情でもない、私のことを好きだと言ってくれた時の優しくて、そしてどこか切なげな表情。あの時の言葉に表情に、偽りがあったなんて疑うことはできなくて。

「私は…、伏見先輩と出会って、伏見先輩のそばにいられて、幸せです」

結局、全てを捨てようと覚悟した私にも、あの人を捨てることはできなかった。


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