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▼ 57

その時の自分を取り巻いていたのは苛立ちと僅かな諦めだった。だけど、恐怖はなかった。そんなものはこれっぽっちも感じていない。そう、虚勢を張りたかった。

半ば乱暴に、強引に抱いた。泣き喚く声も聞かずに自分の気が済むまで。黒く沈殿したなにかが消えるまで。何度も、何度も、馬鹿みたいに。でも、満たされることはなかった。

泣いて叫んで、嫌だ嫌だと譫言のように繰り返した。いつもは首を縦にしか振らない渚は、最後の最後まで俺を受け入れなかった。

明らかな拒絶。明確な抵抗の意志。あそこまで頑なに拒まれたのは初めてだった。当然だが、いい気分ではない。

疲労からか、こんな状況にも関わらず無防備に寝息を立てている渚を後ろ目に一瞥する。それから一度、苛立ちを隠さず舌を打った。

「…だから嫌だったんだ」

刃を奪い、騙して檻の中に閉じ込めた。そのことに不思議と罪悪感はなかった。そのくせ、なぜ外に出してしまったのか。縛り付ける方法は他にいくらでもあっただろう。

閉じ込めておけば何も知らずに生きていたのに。籠の中の鳥のように与えられた餌だけを食べて満足していたのに。

あのまま飼い殺しにしておけばーーーーそう思うと全てのものが恨めしくなる。コイツで遊ぼうとした室長も黙認した副長もその他の連中も、そしてコイツの理想郷を壊したあの人も。

「っ、くそ…ッ」

最初から全て知っていたわけではない。寧ろ、気付いたのは極最近だ。写真を見せられるまでそんな偶然はないと思っていた。

こうなることも予想していなかった。何故あの人は渚を殺そうとした?違った筈だ。逆だった筈だ。俺が吠舞羅にいた頃と何かが変わってる。

額に手を当てて前髪を掻き上げる。吠舞羅。途端、胸元の徴が疼いて爪を立てる。痛い。いたい。イタイ。

「美咲」

怨恨の対象になってもいい。ただ、自分を見て欲しい。あの頃のように。世界に俺たち二人しかいなかった、あの頃ように。

言葉として表すことはできなかった。言葉で表せるほど単純なものじゃない。誰かに理解されようとは思わない。理解されたいとも思わない。

ただ、美咲に対するソレはコイツに対するソレと似ているようで、全く違った。

「…、渚」

お前は俺だけを見てればいい。お前は俺だけを愛せばいい。それ以外は、必要ない。なんでって、そんなの決まってる。お前の全ては俺のモノだから。

頬に手を寄せて顔を近づける。理屈なんてどうでもいい。根拠なんて知ったこっちゃない。ただ、天風渚は俺のモノだという事実だけがそこにある。

昔の俺は、美咲がそばにいるのが当然だと思っていた。けれど、そんなのは結局自分の思い込みに過ぎなかった。だから、アイツはいなくなった。離れていった。そう気がついた時にはもう遅い。

それではいけなかったのだ。そんな甘ったれた願望に縋っていた俺が間違っていた。同じ過ちは犯さない。もう二度と、あんな思いはしない。

渚がそばにいるのが『当然』ではない。『絶対』だ。

だから、お前は何も考えずに傍にいればいい。後ろに、隣に、中にいればいい。それなのに。

「なんで、泣くんだよ」

閉じられた瞳から流れる涙が目尻を伝って、落ちた。あと少しでも近づけば重なることができるのに、動けなくなる。

その身体は、心は、表情は、血は肉は、声は息は涙は心臓は、俺のモノの筈だ。渚は俺の為に生きている。渚の全ては俺の為だけにあればいい。

だから、その涙も俺の為だけに流せばいい筈なのに。

「なぁ、渚。お前は今、誰の為に泣いてる?」

返事はない。答えなんて聞くまでもないだろう。あの人だ。あの女だ。今の渚には自分の姉だけがすべてだ。それ以外はどうでもいい。

今の渚の中に俺はいない。もっともなことだ。急に殺されかけて、知りたくもなかった事実を告げられれば嫌でも意識はそっちに向く。特に、それが血の繋がった姉であれば尚更に。

そんなの分かってる。それでも、許せない。気に食わない。どうして俺を求めない。どうして俺を拒絶する。どうして助けてくれと俺に縋らない。

こんなにも愛しているのに、どうしてそれに気づかない。

細く白い首に指をかけた。このまま指に力を入れて喉元を潰せば渚は死ぬだろう。なんて、呆気ない。ふっと自嘲気味に息を吐いて、目を閉じた。

「お前が、悪い」

力を入れる。渚が目を見開いて必死にもがく。

力を入れる。渚の身体が痙攣する。

力を入れる。渚の身体から力が抜ける。

力を入れる。渚の瞳はもう二度と俺を映さない。

瞼を上げれば渚の寝顔がある。ふと気づくと僅かに息が上がっていた。鼓動が速まり、手がジットリと湿っている。寒気がした。一連の動作を想像して俺は、確かに恐怖していた。

それでも、美咲と同じように俺から離れていくのであれば。そうなるぐらいなら、いっそこの手で。

「ふしみ、せんぱい」

小さな声に名前を呼ばれ、ハッとして首から手を離した。瞳は固く閉ざされたまま、開くことはない。夢を見ているかのように瞼の下で眼球が動く。

気付いた時には少しだけ安堵する自分がいた。俺は今、渚の世界に存在しているのだと。まだ、存在できているのだと。だが、それがいつまで続くかなんて分からない。

疑った。いつ俺の隣から消えるのかと。今の俺には少しも渚を信じることなんてできず、だからこそ、ただの寝言にさえ本気になった。

「おいてかないで…」

あくまで、寝言。意識はない。そこに意味があるのかすら分からない。目を覚ました時には覚えていないかもしれない。それでも、たったその一言が酷くハッキリと聞こえた。

なにを言ってるんだ、コイツは。置いていかないで?置いていくのはお前だろ。離れていくのはお前だろ。

ぐちゃぐちゃに混ざり合った様々な感情と衝動に、気付けばその身体を掻き抱いていた。

「…ん、? あ、えっ、ふしみせんぱい…?」

さすがに目を覚ましたのか、寝ぼけたような声が僅かな驚きを混じらせ俺の名前を呼ぶ。なにも知らず、なにも気付かず。ああ、くそ。ムカつく。

「お前のせいだ」
「え…?」

なんでこんな大して強いわけでもない、特別能力が優れているわけでもない、絶世の美女なわけでもないただの平凡な奴に、俺は。

「お前がいるからなんだよ。お前がいるから、俺はこんな…」
「あ、の…?なんの話を…?」

戸惑ったような声が耳元で聞こえる。ごめんなさいと、理由も分からず謝る声が聞こえる。いつもと同じ、うざったいほどにひ弱な女。天風渚は確かにここにいる。

いったい誰なんだろうか。守るものがある人間は強くなれるなんて世迷言をほざいたのは。


「伏見、アンタは弱くなった」

そんなわけがないのに。どんな時でも気になって、勝手に身体が反応して庇って、感情移入なんてくだらないことをして、憎んだ筈の相手を殺すことに躊躇すらして。

「お前のせいで、俺は…っ」


「守るものも大切にするものも何もない。自分の為だけに生きていた頃の伏見の方が、今より何十倍も強かったよ」


こんなにも弱くなった。

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